インディ500で日本人初優勝の佐藤琢磨。 そのスピード出世も異例だった
聡明な人、だと思う。高校時代に自転車競技を始めた。ただ、通っている学校には自転車部がなかったため、クラス担任に顧問をお願いし、独力で創部。3年のときにはインターハイに出場し、全国優勝している。早稲田大学に進んでからも、95年インカレ2位、96年学生選手権優勝、と華々しい記録を残している。だが……。
「自転車競技をやっている間も、車に乗りたいという気持ちはずっとありました。9歳で鈴鹿GPを見てから、ずっと”いつかはあれに乗りたい“と思っていたんです。ただ、雑誌などを読んでいると、F1レーサーはほとんど、子どものころからカートに乗っていることに気がついたんです。僕は、すっかり出遅れている。自分もなにかやらなきゃ、と焦るんですが、でも実際どこから手をつけたらレーサーになれるのかわからなかった」
そんなとき、鈴鹿レーシングスクール(SRS-F)が設立されたことを雑誌で知る。そこでスカラシップをとれば、翌年全日本F3に参戦できる。モータースポーツへの入口だ。SRS-F入学の年齢制限は20歳。当時佐藤は19歳とぎりぎりで、このいわばラストチャンスに、超難関といわれたSRS-Fに一発で合格。カートの全日本チャンピオンなどのライバルを尻目に、97年、見事にスカラシップを獲得すると、翌98年、全日本F3選手権に参戦を果たしている。きわめて異例の、スピード出世だった。
だけど佐藤は、それで満足はしなかった。F1ドライバーになるには、イギリスで活動する以外にないと、シーズン途中で渡英を決める。聡明、というのはここからだ。あわてず、あせらず、99年は英国F3参戦の準備期間にあてるのだ。
「モータースポーツはヨーロッパの文化ですから、その土地になじみ、英語を話し、生活にとけ込むことが必要だと思ったんですね。ですからじっくりと英語を学び、イギリスの暮らしに徐々にとけ込んでいきました。おかげで、F3に乗る2000年には、もうすっかり気分は土地の人でしたね」
別の言語圏で生活するのは、相当のストレスがかかる。ましてモータースポーツでは、マシンのチューニングなど、微妙なニュアンスを伝え合うコミュニケーション能力が必要だ。だから佐藤は、自分が出遅れているのを承知で、あえて1年間じっくりと準備期間を設けた。ケガからのリハビリを考えてみればいい。万全の状態じゃないのに、焦りが先に立って無理な負荷をかけると、またゼロからやり直しになってしまう。佐藤は、そういう愚を避けたのだと思う。
やろう、と思ったら遅すぎるなどということはない
だから、佐藤の英語はぺらぺらだ。
「自分では、25歳までにF1にステップアップしようと決めていました。そのためにはどうしたらいいか、大まかなプログラムを自分で立て、それを実行した感じですね」
そして、満を持して英国F3に参戦した2000年。佐藤は故アイルトン・セナに並ぶ12勝という大記録を達成し、01年、日本人7人目のF1レーサーとなる。青写真通り、25歳のときだった。
「たとえばね……ピアニストやバイオリニストが一流になるには、3歳4歳から始めて、血のにじむような努力をしなきゃ無理、と決めつけているような風潮があるでしょう。ドライバーもそう。小さいころからカートに乗って、英才教育を受けるのが成功への最低条件みたいになっているんですよ。僕のように19歳でカートに乗り始めるなんて、”無理無理“とハナから相手にされないわけです。でも僕は”どうして無理なんだろう?“と思う。人が無理だというから挑戦もせずにあきらめるんじゃなく、やってみなきゃわからないじゃないですか」
自転車から車に乗り換え、わずか5年でF1に達した男の言葉だから、なおさら説得力があった。
02年から08年まで、F1につごう92回出走した佐藤は、10年からインディ・カーシリーズに参戦。インディ500では、8度目の挑戦でついに頂点に立った。かつて、大学時代に取り組んだ自転車競技の駆け引きについて、こんなふうに語っていたことを思い出す。
「トップに立つために飛び出すのは、だれもが苦しい峠の登りなんです」
そして自転車競技時代、佐藤が得意だったのは、苦しさを乗り越えた峠の下りで相手を引き離すことだった。