「燃え尽き症候群に」マイアミの奇跡のメンバーの悔恨 五輪出場はW杯への登竜門か?
「五輪経由ワールドカップ行き」
この言葉が今の日本サッカー界では1つのスタンダードになっている。現在、日本代表で活躍する選手たちも通過してきた道だ。
五輪が「キャリアアップへの登竜門」という意味では昔も今も変わらない。
しかし、24年前の96年アトランタ五輪で「マイアミの奇跡」を起こしたメンバーの1人である松原良香(指導者・解説者)は、「アトランタ五輪経由フランスワールドカップ行き」を果たせなかった選手の1人だ。彼がチャンスをつかみきれなかったのはなぜか。アトランタ世代の成長の妨げになったものは何だったのか。五輪が選手キャリアにどんな影響を及ぼすかを今、改めて考えてみることにする。
今は五輪がキャリアアップの登竜門
新型コロナウイルス感染拡大によって、2020年東京五輪の1年延期が決まり、2021年7月23日開催にズレ込むことになった。それに伴ってサッカー男子代表の年齢制限がどうなるか懸念されていたが、国際サッカー連盟(FIFA)が「97年1月1日以降生まれ」という出場資格を維持する方針を示し、中山雄太(ズウォレ)や三好康児(アントワープ)らこれまで主軸を担ってきたメンバーが参加できる見通しとなった。
五輪というのは、彼らにとって「将来の成功のためにぜひ経験しておきたい大舞台」。今は五輪前に海外移籍を実現させている選手も多く、「キャリアアップへの登竜門」という意味合いは少なくなった。だが、2018年ロシアワールドカップの主力だった長友佑都(ガラタサライ)、酒井宏樹(マルセイユ)らが「五輪経由ワールドカップ行き」を果たしたように、A代表入りしてワールドカップの夢舞台に立つための重要なステップであることは間違いないだろう。
五輪が全てだった24年前
ただ、24年前の96年アトランタ五輪の頃は、その道筋が明確ではなかった。93年にJリーグが発足したばかりの当時、日本はまだワールドカップ出場経験がなく、五輪に至っては68年メキシコ五輪からアジアの壁を破れていない状況だったからだ。
前園真聖や城彰二(ともに解説者)、川口能活(日本サッカー協会アスリート委員長)といった個性豊かな面々の合言葉は「俺たちが日本の歴史を変えるんだ」。世界がどんなレベルなのか、自分たちがどこまで通用するのか…を彼らはまだ理解していなかった。93年U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)と95年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)に連続参戦した中田英寿、松田直樹の飛び級2人は多少なりとも実感を持っていたかもしれないが、国際経験の乏しいアトランタ世代の主力たちは先を見通す材料を持ち合わせていなかった。96年3月のアジア最終予選準決勝・サウジアラビア戦を2-1で勝って28年ぶりの本大会切符を手にし、同年7月の本番でブラジルやナイジェリアなど強豪国と対峙する日々を通して、彼らは手さぐりで未知なる道を切り開く状態だったのだ。
松原良香の貴重な証言
当時のメンバー・松原良香はこう語る。
「アトランタ本番の初戦はご存じの通り、王国・ブラジルが相手でした。当時のブラジルはベベット、リバウド、ロベルト・カルロスといった94年アメリカワールドカップ優勝メンバーが並ぶ最強軍団。自分はテル(伊東輝悦=沼津)の先制点で1-0でリードした後、終了間際の86分に城と代わって出ましたけど、それまでにないほどドキドキした記憶があります。勝った時、『俺たちは持ってる』と思った。それだけのイケイケ感がチーム全体にみなぎっていました。
でも、肝心な次のナイジェリア戦を0-2で落としてしまった。この試合のハーフタイムにヒデが西野(朗=現タイ代表監督)さんに『もっと攻撃的に戦いたい』と意見して、それでチームの雰囲気が悪くなったように言われていますけど、僕はそんなことはないと思う。ゾノもヒデも能活もマツもつねに自己主張をしてましたし、『何でも言葉にして伝えないと分かり合えない』という意識があったから、みんな遠慮なく言い合うのが常でした。ナイジェリア戦のハーフタイムだけが特別だったわけじゃない。敗因はマコ(田中誠=磐田スカウト)の負傷退場、ナイジェリアが後半になって本来のポテンシャルを発揮してきたこと、さまざまな要素が絡み合った結果だと思います。
この結果が大きく響いたのは確か。3戦目のハンガリー戦は僕も先発して3-2で勝ったのに、1次リーグ突破は叶わなかった。2勝して勝ち点6を取ったのに、ブラジルとナイジェリアを上回れませんでした。あの時の自分はアトランタ五輪が全てだったから『ああ終わったな』というガッカリ感がすごかった。燃え尽き症候群にも陥りました。『次はA代表入りしてワールドカップを目指そう』なんてすぐに気持ちを切り替えられなかったですね」
A代表でブレイクした選手が少なかったアトランタ世代
その後、アトランタ世代から川口、城、中田は早い段階でA代表入りし、翌97年秋に行われた98年フランスワールドカップアジア最終予選で中心的な役割を担い、本大会のピッチにも立ったが、キャプテン・前園を筆頭に高いポテンシャルを持った選手の多くが「五輪経由ワールドカップ行き」を果たせなかった。それは、松原の言う「燃え尽き症候群」が一因かもしれない。「五輪に出ればワールドカップが近づく」「海外移籍の道が開ける」という明確なビジョンのなかった当時の環境が、彼らの成長の妨げになった部分は少なからずあったのではないか。
こうした悔しさを晴らすべく、アトランタ世代の何人かはJリーグで目覚ましい活躍を見せた。服部年宏(磐田スタッフ)、鈴木秀人(磐田強化部長)、田中誠らはジュビロ磐田の黄金期を築き、伊東も45歳になる今まで現役を続けている。一方で、個人レベルで海外挑戦の道を探った者も何人かいた。有名なのは98年夏にイタリア・ペルージャへ移籍した中田、99年冬にスペイン・バジャドリードへ赴いた城、2001年秋にイングランド・ポーツマスへチャレンジした川口だが、松原も99年にはクロアチア・リエカへ参戦。その後もスイスやウルグアイ、ブラジルなどを渡り歩いている。
個人レベルのさまざまな挑戦が人生の糧に
「自分がもともと海外へ行った最初のきっかけは、アトランタ五輪代表コーチをやっていた山本昌邦(現日本協会技術委員会副委員長)さんに『世界で戦うために、南米で修業してこい』と檄を飛ばされたこと。Jリーグ入りする前の93年にウルグアイのCAペニャロールで1年間プレーして、世界でやっていける自信がついたし、『自分たちが歴史を作るんだ』という気持ちにもなりましたね。でもアトランタ後の海外移籍はクラブとの行き違いや相手の事情だったり、代理人との意思疎通の問題が続いて、なかなか安定したプレー環境を得られず、納得いくパフォーマンスを発揮しきれませんでした」
松原が悔恨の念を口にするように、2000年代前半までは日本サッカーの世界的位置づけが低く、日本人選手が海外クラブで重要視される場面が少なかった。そういったマイナス面もあって、アトランタ世代には持てる才能の全てを開花させられないまま、どこか不完全燃焼感を抱えてキャリアを終えた選手が何人かいた。今、考えるとそれは大きな損失だった。「時代」と言えばそれまでなのかもしれないが、本当に悔やまれてならない。
東京五輪世代には先人の足跡を学んでほしい
あれから20年以上の月日が流れ、日本には久保建英(マジョルカ)、安部裕葵(バルセロナ)のように10代のうちから世界的ビッグクラブからオファーを受ける選手も出現している。そういう環境が生まれたのも、松原らアトランタ世代がマイアミの奇跡を起こし、日本の成長を世界中に知らしめ、歴史をかえようと努力したからに他ならない。その事実を再認識したうえで、東京五輪世代には五輪出場の意味を改めて熟考してほしいものだ。