『米を作らずして買って食うやつは天下の大盗賊』
…と言ったのは私では無く、江戸時代中期の医者であり思想家、哲学家であった
安藤昌益さんの言葉だそうです。
現代においては、さすがにそこまでとは思わないものの、この一文を読んで思わず笑いました。胸のすく思いでの笑いです。
先に一言添えておくと、現代ほどに文明が繁栄して維持、更に発展していけているのは皆が農をする必要が無くなり、分業化が進んだおかげ。でも皮肉なことに、その分業化が行き過ぎた結果、良くないことも沢山起きているのが現代でもあると思います。
野菜もだけど、米、麦は特に現代において、手作業で栽培するには全くと言っていいほど、割りに合わない。
『現代に於いては非効率の極み』とさえ、やってて思う。
だからこそ、この一文にすこし気持ちが救われる思いがしたのかもしれないです。
「自分のやっているこの非効率な行いに一体なんの意味があるのだろうか?」
そう思ったのは米だけで無く野菜にしても1度や2度では有りません。
毎年10回くらいは思っています(笑)
でも、そんな非効率で大変で大して量も採れない稲作を7年も(一昨年からは麦作も)続けているのかといえば…
なんでだろう?笑
もう、意地みたいなところはちょっとある笑
いわゆる農業体験で行われるのは田植えと稲刈りだけど、実際の稲作はもちろんそれだけじゃないんです。
田んぼの準備や、稲苗を育てることや、水の管理やら除草除草じょそう…
もう、特に無農薬・除草剤無しでやろうとするととにかくどうやって雑草を生やさないようにするか、生えたとしても稲が埋もれない程度に管理するにはどうしたもんかというところが一番大変です。それが、今は水田にぽーんと投げ入れるだけで雑草が生えてこなくなるというめちゃくちゃ便利な除草剤もあったりします。
稲刈り後も刈った稲を縛って干して、脱穀して籾摺りして精米してやーっと食べられる。
芋の栽培がウルトラ可愛くて思える大変さで無農薬手作業でのお米は出来ています。
八十八の手間と書いて『米』というのも全部やってみるとよくわかる。
それが、現代では先人の方々の努力と技術開発のお陰で便利な薬剤や機械が普及して大規模に低コストで安定体的に生産できるようになりました。
そのお陰で、現代日本では殆どの人が飢えること無く毎日お米を食べることが出来ています。
それがいっそう、手作業での稲作の意味価値をわからなくさせる理由でもあります。
と、ここまで書いてみて改めて考えてみると、
いくら大変でもやっぱり、自分の手で食べるものを育てていたいという気持ちがあるからだと思う。
食や農、自然環境のことを話したりする身なのだから尚更に。
真夏の除草作業が大変すぎて、もう今年で辞めようかなと毎年のように思うのだけれど、秋に実った稲穂を見るとやっぱり感動して来年もがんばろうって気持ちになる。
そんなことの繰り返しでなんとか農を続けてこられています。
稲作を続ける大きな理由として、少しでも失われていく品種を保存していきたいからというのもあります。日本には800種類以上のお米があるそうなのですが、野菜の伝統品種と同様に年々作られなくなって消えていくものも多いと思います。
完璧に形質を保存することまではできないものの、とりあえずその土地で育つお米を育て続けられればいいかなと考えています。