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いざ甲子園へ! その3 日本文理のスラッガー・川村啓真と大井道夫監督の最後の挑戦

楊順行スポーツライター
2009年夏、中京大中京6点リードの9回二死走者なしから5点を奪った日本文理(写真:岡沢克郎/アフロ)

2009年夏の甲子園準優勝、14年のベスト4など、新潟の高校球界をリードしてきた日本文理。この夏の新潟では、断然の優勝候補だ。昨秋、今春と2季連続で県を制しているが、なにしろその決勝のスコアが14対0、14対1と圧倒的なのだ。

投げては稲垣豪人、西村勇輝に加え、昨秋に148キロをマークした2年生右腕・鈴木裕太もいる。打線では1年春から中軸の川村啓真、春に抜擢されて大爆発した松木一真らがいる。春の北信越大会はベスト4止まりだったが、とくに川村。東海大諏訪戦では、広いハードオフエコスタジアムの右翼に、自身通算31号をライナーでぶち込んだ。中学までは捕手だったが、いまは右翼。

「ホームランは完璧な手応え。キャッチャーだと、攻撃中でもバッテリー間の打ち合わせがありますが、いまは自分の打席まで、相手の配球などをじっくり見られる」

富山・桜井中時代から、稲垣とともに注目のバッテリーだった。1年春の早実との練習試合では、清宮幸太郎の目の前で一発を放ったこともある。折りしもこの日は、早稲田実・清宮が通算100号ホームランを放っており、「自分は3分の1ですか……」と笑ったが、全国的にも屈指のスラッガーであることは確かだ。この夏が、甲子園へのラストチャンスとなる。

「打つべきバッターが打ってくれたのはいいよね」

とは、日本文理の大井道夫監督だ。この2月には一時、3月いっぱいの退任が報道されたが、「監督を譲るのはチームが強い時期」というのが持論。ドタバタのすえ、この夏を最後に、鈴木崇コーチへバトンタッチすることに落ち着いた。10日に予定されている初戦に、当然力は入る。

打てば三振、打ち取ればエラー

いまでこそ新潟、いや、北信越の強豪として知られるが、大井が日本文理(当時新潟文理)にやってきたころは、ハシにも棒もかからないチームだった。

宇都宮工のエースとして、1959年の夏に準優勝。早稲田大では外野手に転向し、社会人野球の丸井でもプレーした。引退後は家業の日本料理店を継いでいたが、縁あって日本文理の監督になったのは86年、44歳のときだ。大井は、就任当時を振り返る。

「私はこっちに来る前、栃木で、高校野球の解説をしていたんです。関東のレベルに慣れた目から見ると、新潟の野球はやはりかなりレベルが下でしたね。ことにウチの野球部はひどかった(笑)。たまたま吉田篤史(元ロッテなど)が入ってくれていたけど、彼が打ち取ってもフライは捕れない、ゴロを捕れば悪送球。打つのも吉田だけで、コールド負けの連続でした。ですから、まずは高いレベルの野球を見せ、ハダで感じさせようと、母校の宇都宮工、作新学院など、バスに乗せて練習見学です。そういうところから取りかかった」

以前、新潟県のある監督から聞いたことがある。初めて関西遠征を敢行したときのこと。新潟の野球なら、バントは三塁手もしくは一塁手に捕らせればまずは合格だが、関西のチームは三塁線、一塁線にきっちり転がすことまで徹底している。そして、自分がミスすれば負けるということが体に染みついているから、キャッチボールひとつとってもおろそかにしない。そういえば大井にしても、なかなか甲子園で勝てない時代には「新潟では、140キロ級のピッチャーと対戦したくても、なかなかそれができない」と語っていたものだ。

大井には高校時代、「野球は西高東低という固定観念があった」という。宇都宮工が夏の甲子園に出場したのは59年だが、戦後その年のセンバツまで、春夏26回の甲子園大会のうち、愛知より東のチームの優勝はわずか5回だ。なるほど、確かに西高東低。しかも宇都宮工の初戦の相手は、野球王国・広島の広陵で、そのイメージに負けていた、だけど……と大井は回想する。

「高校生だもの、甲子園に出られたことである程度満足していたところが初戦、雨で順延になるんだけど、ブルペンでの私の投球を見ていた相手の(前田貞行)監督が、夕方のラジオの番組でしゃべってんのよ。“あのくらいのピッチャーなら、広島にはごろごろいる”って。それを宿舎で聞いた私はカチンときてね、翌日は“よ〜し、やってやろうじゃねえか”と、名前負けなんかどこかに忘れて、12三振1失点で完投ですよ。試合後の相手監督の談話がよかったね。“あんないいピッチャー、広島にはいない”(笑)」

甲子園での実績が寂しい新潟勢にとっても、西高東低はあった。同じ北信越5県のなかで新潟は、力量差のある平幕といったところ。ことに福井、石川といった西のチームには、なかなか歯が立たなかった。たとえば記録をひもとくと、秋の北信越での新潟県勢は、71年の初対戦から福井商に7連敗。北信越のことに他県の強豪私学など、北信越の抽選で新潟が1回戦の相手と決まると、ひそかにほくそ笑んだといわれる。大井が初めて北信越に進んだのは90年の春だが、

「そのときは初戦で、長野日大さんに大敗(5対12)。ちょっと勝てるようになってからでも、福井商さんや星稜さんが大きな壁だったね。それが05年の秋、北信越の準決勝で初めて福井商さんに勝ったのよ(6対4)。新潟勢が北信越大会で福井商に勝つのは、02年の春の(新潟)明訓さん以来だけど、秋に限っては初めてだったんだってね。私はよそからきた人間だけど、県内では“福井商に勝ちたい”“福井商に勝ちたい”と耳にタコができるほど聞いていたわけ。だから、新潟からすれば別格だったチームにようやく勝ったことはうれしかったし、“これでなんとか、甲子園でも戦えるんじゃないか”と思いましたねぇ」

このときの北信越で準優勝して、翌年センバツに初出場した日本文理は、大井の手応え通り高崎商、北大津を連破。横山龍之介(元阪神)、栗山賢の投の2枚看板を軸に、新潟勢のセンバツ初勝利ばかりか、ベスト8にまで進出している。さらに文理は翌年秋の北信越で、もうひとつの壁・星稜をも準決勝で倒し、秋の北信越では新潟県勢として49年ぶりの優勝を果たしている。そして09年夏には、県勢初の甲子園準優勝、さらに14年のベスト4……大井はあるとき、こんなふうに語ってくれたものだ。

「縁あって新潟県民となり、センバツ初勝利と8強、そして夏の準優勝を果たしたことで、多少なりとも新潟の野球に貢献できたかな」

センバツ初勝利、甲子園準優勝の功績

白状すると、筆者は新潟出身である。甲子園に取材に行くたび、故郷のチームの初戦敗退を目にしてきた。夏に限れば85〜92年まで8連敗で、センバツともなると90年代までは出場すらわずか3回、白星どころか初めて得点したのが96年の新潟明訓である。センバツ初勝利は先述の06年日本文理で、大井は当時、

「春に勝てない、勝てない……とずっと……いわれてきて……」

と目を潤ませていたものだ。だが、新潟のレベルはまだ高くはない、と気を引き締める。

「だって、09年に準優勝したといっても、中京大中京のスイングスピードなんかとはまるで違うよ。それでも、あそこまで追い詰めるんだから、名前負けしていちゃもったいない。まずは“勝つんだ!”という気持ちじゃないかな」

とはいえ、いまは全国V経験もある強豪校の監督でさえ、「甲子園ではもう新潟とか、北信越とか、地域ごとの力の差はない」と認めている。新潟出身者としては、県内の高校野球を引きあげてくれた功労者の大井には感謝、感謝だ。この76歳になる老将には、3年ぶりの甲子園でなんとか花道を飾ってほしい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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