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朝ドラの「ちゃぶ台押さえ」が面白い 星一徹のような「昭和の父親像」の誤解

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

連続テレビ小説『スカーレット』は楽しく見られるドラマである。

細かいセリフ廻しがなかなか素敵である。

戸田恵梨香のコメディ演技がとてもおもしろい。それはたとえば父役の北村一輝とのやりとりで絶妙な味わいを出している。

父はよく喋るが、頑固親父である。おそらく大正生まれだろう。戦争に行って、戦地で助けた戦友(マギー)を頼って滋賀の信楽に来ている。

この世代はだいたい亭主関白である。とにかく偉そうにする。

たとえばこの父は「女には教育はいらん」といつも言っている。娘にもそう言わせている。

いまとはまったく違う時代のまったく違う家庭の風景である。

亭主関白というか、一家の主人というだけで精一杯偉そうにする時代だった。それは社会と国家が後押しする制度だったので、日本国中はそういう家庭でいっぱいだった。戦争に負けてそのシステムは終わったはずなのだが、そう簡単に人は変われない。昭和の中期まではそんな頑固親父で溢れかえっていた。

ただ本当に強い人だったらいいのだが、そんなに強くもなく、心が弱い人でもその強い“亭主”を演じなければならなかった。いろいろ破綻する。弱い人が無理に偉そうにしようとすると、やたら攻撃的になってしまう。それはいまも昔も変わらない。

『スカーレット』は「ちゃぶ台押さえ」のドラマである

ドラマ『スカーレット』では11月に入って、主人公が滋賀の信楽に戻ってきてから、父の傍若無人ぶりが目立つようになった。

主人公の妹たちが大きくなって、父の言うことをきかなくなったからだろう。

ときどき「ちゃぶ台をひっくり返す」シーンが出てきている。

最初に出たのは38話。帰りが遅くなった主人公が家にたどりつくと、父が怒ってちゃぶ台をひっくり返したあとだった。

理由は風呂がわいてなかったことと、次女が、いちいちうるさいねん、と口答えしたことである。ちゃぶ台には食器だけが乗っかっていた。食事はまだ準備中で、茶碗と箸だけである。それを父がひっくり返した。

ただ、きちんとひっくり返すシーンがあったのはこの回だけだったようにおもう。

そのあと42話では、酒だと騙されて水を飲まされた父が怒ってちゃぶ台をひっくり返そうとしたのだが、主人公の喜美子が父と重なるように上から押さえた。ちゃぶ台はひっくり返されずに、押さえつけられた。

また45話でも同じく、次女の口答えに怒った父がひっくり返そうとるすが、主人公が父の近くで、三女はその後ろでちゃぶ台を押さえ、ひっくり返されなかった。

娘の勝ちである。「ちゃぶ台押さえ」がひっくり返しに勝った。

このときの主人公(戸田恵梨香)の表情がたまらなくいい。というか、ただおもしろい。

傍若無人な父の「ひっくり返し」を押さえきり、ひっくり返させない。その目を見開いて父を睨む表情を見てると、おもわず噴き出してしまう。父の暴力シーンのはずが、とてもコミカルなシーンになっている。

このあたりの味わいが『スカーレット』の魅力だとおもう。

いまはこういう所作を「ちゃぶ台返し」と呼ぶようだが(私にとってはけっこう新語である)、この主人公喜美子の所作は「ちゃぶ台返し返し」とでもいうような技になる。佐々木小次郎もびっくりだ。あっさり言うなら「ちゃぶ台押さえ」だろう。

『スカーレット』は「ちゃぶ台押さえ」のドラマなのだ。

ただ、「ちゃぶ台をひっくり返す」という行為について、かなり大きな誤解があるとおもうので、その点を説明しておきたい。

『巨人の星』では一度たりともちゃぶ台はひっくり返されていない

「ちゃぶ台をひっくり返す」というと、出てくるのは『巨人の星』の主人公の父・星一徹であり、ドラマ『寺内貫太郎一家』の主人公、小林亜星演じる寺内貫太郎である。

『巨人の星』はまさにどんぴしゃの世代なので、もともと深く読んでいたし、のちすべてのコマを真剣に読み込んで本も書いた。(『巨人の星に必要なことはすべて人生から学んだ。あ。逆だ』)。

原作漫画を仕事として何度も読んだから、断言できるが、星一徹は一度たりともちゃぶ台をひっくり返していない。

『スカーレット』で父がやるように、ちゃぶ台の端を持って、上に乗っているものをぶちまけることが目的で、ちゃぶ台をひっくり返すということは、一度たりともしていないのである。

そしてドラマの『寺内貫太郎一家』も同じである。

かつてとびとびに見ていた印象で、星一徹はひっくり返してないが、寺内貫太郎はひっくり返していた、というふうにおもいこんでいて、それをどこかで書いたような記憶があるが、このたび第一シリーズを全話きっちりと見て確認したので、それを訂正したい。

寺内貫太郎も、一度たりとも、ちゃぶ台をひっくり返したことなどない。

 

大事なことなので、もう一度書いておきます。

昭和時代、星一徹や寺内貫太郎は、ちゃぶ台を意図的にひっくり返す、ということは一度たりともしていない。

両作品をすべて調べたので、(寺内貫太郎は基本である第一シリーズ全編)そう断言します。訂正できるものは、いまからでも訂正したほうがいとおもう。

「誤った昭和の父親像」

そもそも昭和時代、現実世界でも強権的な父親は、ちゃぶ台をあまりひっくり返していなかったのではないだろうか。あらためて、それは平成時代に作られた「誤った昭和の父親像」ではないかとおもっている。

彼らはそんな生やさしい存在ではないのだ。

ちゃぶ台をひっくり返しても、後片付けをすればすむだけである。誰も痛いおもいをしなくてすむ。(人に当たらなければ、だけど、だいたいちゃぶ台をひっくり返してる人は当たらないようにしている)

怒ったときの星一徹も寺内貫太郎も、そんなやさしい存在ではない。

怒らせた原因を痛めつけようとする。それが戦場に駆り出された世代である。

もし、ちゃぶ台が言うことを聞かず、しかも口答えしたのなら、ちゃぶ台を痛めつけただろう。いろいろ殴ったりひっくり返したかもしれない。でも『巨人の星』でも『寺内貫太郎一家』でも、ちゃぶ台は喋らない。

口答えするのは、だいたい子供である。(そういえばどちらも姉と弟の二人姉弟である:寺内は第一シリーズに限るが)。強権親父は、口答えしたやつ、約束を守らないやつを殴る。投げる。平手打ちをする。ちゃぶ台なんかひっくり返さない。そんな無駄はしない。

徴兵された世代をなめないほうがいい。

ちゃぶ台をひっくり返すというのは、弱者の抵抗である。直接、怒りたい相手にぶつけられないからモノに当たってる人である。

大正生まれの強い父はそんな面倒なことはしない。

そういうのはその子供の世代、反抗することがいいことだ、とおもってた世代のやりそうなことである。具体的に言うなら戦後にまとまって生まれたベビーブームの世代、学生運動でしきりに造反有理と謳っていた世代。彼らは自分たちの心情を反映する形で、歴史を歪め、自分の親世代をそう描いてしまったのではないだろうか。

無意識だろうが、かなり意図的な歪曲である。上の戦争体験世代に対するアンチテーゼの一種だろう。

大正生まれは、子供をふつうにひっぱたく。(もちろん人によりますが)。

寺内貫太郎もちゃぶ台を一度も返していない

星一徹がちゃぶ台をひっくり返す人として誤解されたのは、ちゃぶ台にかまわず息子の飛雄馬を殴ったからである。飛雄馬は秘密の練習器具(大リーグボール養成ギブス)を絶対に見せないという約束を破ったうえに、父にうそをついた。そのために父はめちゃくちゃ怒った。まあ、怒るのは正しい。そして当時はそういう子供を殴るのも正しいとされていた時代である。(書いていてどうかとおもうが、歴史的事実なのでそう書くしかない)。

前にちゃぶ台があり、食事中だったのもかまわず、殴ったのだ。

ちゃぶ台が傾き、上の皿や小鉢がすべり落ちていった。

それだけのことである。

ただこのカットがアニメのエンディングで毎週流れた。殴る一徹。殴られる飛雄馬。傾き皿が落ちているちゃぶ台と、驚く姉の明子。このシーンが視聴率20%を超える人気番組で毎週流れたので、ちゃぶ台をひっくり返したかのように信じ込まれているのである。

『寺内貫太郎一家』も同じである。

このドラマが放送されたのは、昭和49年、1974年のことである。

寺内貫太郎の設定はこのときで50歳。大正末年の生まれとなる。

石屋の主人。頑固親父で、妻も子供にも、すぐ手を出す。

第一シリーズだけで39話あった。昭和49年の1月から10月初頭までの放送だ。その第一シリーズ全39話を見た。

こちらも同じである。

寺内貫太郎は、ちゃぶ台をひっくり返していない。

星一徹とまったく同じである。

ちゃぶ台というより6人から8人くらいで囲んでいるから食卓といったほうがいいのだけど、その食事中に家族に怒って、平手で打ったり、投げたり、突き飛ばしたりするから、食卓の上の皿が落ちていってしまう。それだけである。

寺内貫太郎も、ちゃぶ台の端に手をかけて、ちゃぶ台をただひっくり返すということは一度たりともしていない(第一シリーズは全話そうである)

ドラマは1月から放送されたので、1話から9話までは、こたつで食事をしていた。10話から最終39話まではちゃぶ台(食卓)である。

だいたい貫太郎と長男(西城秀樹)がとっくみあいの喧嘩をする。

食卓や皿、小鉢のことはまったく構わず喧嘩をするので、女性陣がさっと食卓を隣室に引っ張っていった。後半はそれは祖母(樹木希林、当時の芸名は悠木千帆)とお手伝いのミヨちゃん(浅田美代子)の役目だった。それっと息を合わせて二人で隣室に引っ張っていく。

それでも投げ飛ばされた長男がちゃぶ台の上にひっくり返り、そこにある料理の乗った皿や小鉢がすべてすべり落ちていくことがある。

それも、そんなに多くない。

ちゃぶ台の上のものがすべり落ちたのは、27話、34話、37話の3回だけである。

ほかにちゃぶ台の脚が折れたことが7話、25話、33話、34話の4回。

ちゃぶ台や、乗っかってるものに被害があったのはその6回だけだ。(34話は脚が折れて、上の枝豆と灰皿が落ちたので重複している)

ただとっつかみあいの喧嘩はほぼ毎回あったので、きちんと記録して見てないと記憶は混濁するだろう。

貫太郎は一度たりとも、ちゃぶ台をひっくり返していない。『巨人の星』と同じく、ちゃぶ台は斜めになって、上に乗ってるものがすべり落ちていくだけである。

ちゃぶ台に証言させても「傾けられたことはありますが、返されたことはありません」と言うだろう。

ちゃぶ台ひっくり返す男、というのは幻の存在ではないだろうか。

1980年代にいろんなものが変わった

もちろん日本は広いから、実際に食卓をひっくり返した父というのはいただろう。

ただ申し訳ないが、それはかなり弱い人物だとおもう。完全なやつあたりである。

強い父は、妻にも子にも直接向かわなければいけない。

直接向かわず家具に当たるのは、相手より弱い存在である。かつての日本では一家の主人はそんな立場にはないはずである。

ちゃぶ台をひっくり返すというのは、本来は反抗する子供がやることである。

1980年代にいろんなものが変わって、1960年代の『巨人の星』や1974年の『寺内貫太郎』の世界がまったくわからなくなった。

1980年代の大人が、記憶を改変していった。

戦争に加わった人の心情を想像せずに(彼らは国家から暴力装置になることを強制され身体に刻み込まれた世代なのだ)、反抗を美学とする世代が大人になったときに、記憶が変えられたのではないだろうか。

「ちゃぶ台返し」という言葉が生まれたのも、1980年代以降、おそらく平成に入るころだとおもわれる。パロディ番組で、それまで存在しなかった「ちゃぶ台そのものをひっくり返す」というシーンが描かれるようになったところからだろう。そのときに生まれた新語である。(30年ほど経ってるから昭和世代にとっての新語でしかないですが)。

おそらくみんなちゃぶ台を一度、ひっくり返してみたかったんではないか。気持ちはわかる。

くどいが、繰り返しておく。昭和時代はちゃぶ台は「返されて」はいない。傾いていただけだ。傾いて皿がすべり落ちてることを「ちゃぶ台返し」と呼ぶものではない。

そして、令和となると娘にちゃぶ台を押さえられてしまうようになった。

なかなか素敵である。見ていて楽しい。歴史的事実と関係なく、そういう世界観はとてもいいとおもう。

『スカーレット』は、傍若無人な父の「ちゃぶ台返し」に負けない娘の物語だ。

まだまだ「ちゃぶ台押さえ」の戸田恵梨香の表情を見てみたい。

 

 

 

 

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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