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【鎌倉殿の13人】承久の乱において北条義時と政子に武功を激賞された男の正体とその理由

濱田浩一郎歴史家・作家

法橋昌明は、比叡山延暦寺の西塔谷の僧侶でしたが、源頼朝に背いた源行家(頼朝の叔父)を和泉国で討った恩賞として、摂津国と但馬国の荘園(葉室荘と太田荘)の地頭を賜っていました。『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には「幕下将軍」(頼朝)の頃に、功績があった者と記されています。

その昌明のもとにも、承久の乱(1221年6月)の際には、官軍に加勢するよう、勧誘の手が伸びてきました。ところが、昌明は「巌」(岩石)のような固い意志でもって、後鳥羽上皇の要請を跳ね除けたのです。都に参集するように命じる院の使者5人が、但馬国にやって来ました。昌明は、何と、その使者を斬り殺してしまうのです。

これを見た官軍方の国内の武士らが、昌明のもとに攻め寄せてきます。昌明は、防戦に務め、深山に一旦引き籠りますが、北条泰時の軍勢(鎌倉幕府軍)が都に迫っていることを聞き、馳せ参じたのでした。この昌明の態度と行動を見て、執権・北条義時は次のように激賞したといいます。

「官軍と幕府軍との戦いの際、将軍の命令を受けて、都へ攻め上り、敵の矢に当たったり、水中に入ったりすることは、誰でもできることだ。戦いの結果がどうなるか未だ分からない時に、朝廷の使者を切り殺したことは、関東(幕府)を重んじている証拠であろう。よって昌明の功績は、他の者とは比較にならない」と(『吾妻鏡』)。

義時の姉である「尼将軍」北条政子も、昌明の行動に感嘆。但馬国守護職を与えようとの下文を昌明に遣わします(政子は、昌明の勲功を記した書状を見て、感嘆したといいます)。それまで、但馬守護は、安達親長が務めていましたが、彼は官軍に付いたため、守護を解任。代わって、昌明が新守護となったのです。

昌明は出石郡太田荘の地頭であったということで「太田昌明」とも称されます。北条政子と北条義時、この2人の人物に激賞されるとは、太田昌明、なかなか豪胆な男と言えましょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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