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織田信長は「職業兵士」を養成したという話は、実に眉唾物である

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足軽。(提供:イメージマート)

 最近、織田信長は「職業兵士」を養成しえたというネットの記事を拝読した。これが信長の天下取りの原動力になったという趣旨になろう。信長は本当に「職業兵士」を養成しえたのか、考えることにしよう。

 織田信長が兵農分離を行って強力な軍隊を創出したので、天下取りに邁進できたという説は昔からある。兵農分離とは武士の在地性を否定し、城下に集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策だ。

 中世を通じて、兵と農との身分は明確に線引きされておらず、武士の多くは村落に住み、自身も農作業に従事し、戦争が起こると出陣していた。上級の家臣を除いて「兵農未分離」という状態が普通であり、近世のように家臣が城下に集住したとは言い難い。

 天正4年(1576)、織田信長は居城の安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始した。その2年後の1月、安土城下に住む弓衆の福田与一の家が失火した(『信長公記』)。当時、与一は一人で家に住んでいたので、信長がその事実を問題視した。

 その後、120人もの馬廻衆・弓衆は、単身赴任であることが発覚した。信長は長男の信忠に命じ、彼らの尾張国内の家を焼払わせ、馬廻衆・弓衆の家族は安土城下に住むことになった。信長は家族が一緒に住めば、火事が起こらなかったと考えたのだろう。

 この事例によって、信長は馬廻衆・弓衆を城下に集住させ、兵農分離策を行ったと指摘されている。しかも、その兆候は安土城に移る以前から確認できるという。

 尾張に所領を持つ兼松氏は、天正4年(1576)に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。この事例は、安土城下への集住つまり兵農分離の第一歩と認識されている。

 発掘調査によると、信長が居城とした小牧山城(愛知県小牧市)には、武家屋敷の跡が残っているとの指摘がある。また、稲葉山城(岐阜城:岐阜市)の麓には信長の居館があり、周辺には重臣らの館があったので、信長は城下に兵を集住させ、兵農分離を意識していたという。

 しかし、上記の事例だけでは、信長が兵農分離を実施したとは言い難いという意見がある。戦国大名の直臣が城下町に住むことは決して珍しいことではなく、政策的に家臣を城下町に住まわせた兵農分離と、信長の事例を同列に考えてはいけないとの指摘がある。

 また、信長が兵を集め、強力な軍隊を創出すべく、日々、軍事訓練を行ったことを示す史料があるわけでもない。それは多大な財政負担が必要で、いかに信長といえども困難だったのではないだろうか。

 現時点において、信長が城下町に家臣を集住させたことは明らかになったが、兵農分離を実現したとの明確な根拠はない。したがって、信長が兵農分離により強い軍隊を保有したという見解は、成り立ちがたいとの指摘が大勢を占めている。

主要参考文献

平井上総『兵農分離はあったのか』(平凡社、2017年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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