【プレイバック「鎌倉殿の13人」】源頼朝に逆らって悲惨な最期を迎えた武将5人
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、最終回を迎えた。今回は源頼朝に逆らって悲惨な最期を迎えた武将5人について、詳しく掘り下げてみよう。
■木曾義仲(1154~1184)
治承4年(1180)、木曾義仲は平家に対して挙兵した。翌年には越前で平家の軍勢を打ち破り、北陸道を制圧。寿永2年(1183)に義仲は入京し、平家は都落ちした。
しかし、義仲は後白河法皇と対立するだけでなく、その無作法振りや軍隊の統制が取れていなかったこともあり、やがて公家や都の人々の心が離れていった。
元暦元年(1184)、義仲は自ら征夷大将軍に就任するが、頼朝が派遣した源義経の軍勢に敗北し、逃げる途中に近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にしたのである。
■長田忠致(生没年不祥)
長田忠致は河内源氏累代の家人で、尾張国に本拠を定めていた。平治元年(1159)、源義朝(頼朝の父)が平治の乱で敗れて逃走すると、いったんは匿ったものの殺害した。
源頼朝が挙兵すると、忠致は頼朝に従い「軍功を挙げたならば、褒美として美濃・尾張を遣わす」と約束された。父を殺されたにもかかわらず、頼朝は実に寛大だった。
しかし、頼朝が平家に勝利すると「約束通り、〈身の終わり(美濃・尾張)〉を遣わす」と忠致に言い、処刑したという。
一説によると、忠致は「土磔」といい、生きたまま皮や爪を剥がされ、激しい拷問の末に死んだという。
■上総広常(?~1183)
上総広常は房総に拠点を持つ大豪族だったが、平家と対立していた。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると味方したが、もし頼朝に棟梁の器がなければ、殺害しようと考えていたという。
頼朝は朝廷との関係を重視したが、広常は武家政権を東国に樹立することを主張して対立した。広常は頼朝に下馬の礼を取らず、両者の関係は徐々に悪化していった。
寿永2年(1183)、頼朝は梶原景時に命じて、広常・能常父子を討たせた。しかし、のちに広常が無実だったことが判明し、上総氏は復権を果たしたのである。
■藤原泰衡(1155~89)
藤原泰衡は秀衡の次男で、奥州に隠然たる力を保持していた。文治元年(1185)、秀衡は頼朝と対立した源義経を保護したが、その2年後に亡くなった。
文治5年(1189)、泰衡は義経を討ったが、頼朝は許さず泰衡を討伐しようとした。泰衡は夷狄島(北海道)へ逃げようとしたが、その途中で郎従の河田次郎に殺害された。
なお、梟首された泰衡の首は、額に釘を打たれ、耳・鼻を削がれるという無残なものだったと伝わる。
■源義経(1159~89)
源義経は頼朝の弟で、平家との戦いで大いに貢献した。しかし、義経は東国武士との折り合いも悪く、三種の神器のうち宝剣を失う失態を犯した。これにより両者の関係は悪化した。
その後、義経は後白河法皇から頼朝追討宣旨を得たものの、目論見は失敗に終わった。義経は逃亡生活の果てに、奥州の藤原秀衡を頼ったのである。
しかし、秀衡が亡くなると、義経は文治5年(1189)に子の泰衡によって討たれた。一説によると、義経は中国大陸に渡り、ジンギスカンになったというが、またく史実とは認めがたい。
■まとめ
源頼朝といえば、平家との戦いに目が奪われがちだが、決してそうではなかった。平家以外の人々とも戦い、権力闘争の末に鎌倉幕府を開くことに成功したのである。