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広島・バティスタ、史上2人目のデビュー2打席連続代打弾。1人目の村上信一って?

楊順行スポーツライター
2001年発売のムックより

不思議と、初物に縁がある……村上信一(当時・94年に真一と改名)は、自分のことをそう思っている。印旛高時代、1年の秋に初めて出た公式戦の初打席でホームランを打った。ドラフト外で阪急プレープス(現オリックス)に入団した1982年のキャンプでは、シート打撃でいきなりヒットを打った。84年、ウエスタンの開幕戦は3発放り込んだ。相手は阪神で、マスクをかぶっていたのが印旛高校の同期生・月山栄珠(のち阪神)というのも因縁めいている。そして、同じ84年。優勝争いを演じる一軍に引き上げられたその8月9日、南海(現ソフトバンク)戦の延長10回、代打に出て加藤伸一から決勝2ランのデビューを飾る。初打席でのホームランは、史上17人目のことだった。

だが、村上の場合はそれだけじゃない。その1週間後、8月16日のロッテ戦のことだ。阪急打線は、深沢恵雄に7回までノーヒットに抑えられていた。不名誉な記録が、頭をよぎりかけた8回。代打・村上は、先頭打者として打席に立つと、夢を砕く一発を見舞う。プロ初打席に続く、2打席連続ホーマーだ。この記録は75年、山村善則(当時太平洋=現西武)が達成しているが、いずれも代打での2連発というのは史上初の快挙だった。

落合博満が「打率10割って……」

いまでも鮮明に覚えている。プロ初打席での1本目は、内角低めのまっすぐをフルスイングした。タイミングを合わせ、思いきり振ることしか考えていなかった。2本目は、外側のスライダーをひっかけ気味に打った。打球がライトポールを直撃し、サードを守っていた落合博満に、ベースを回るときに「いいバッティングするな!」と声をかけられ、心がはずんだのも覚えている。

「落合さんには、翌日も声をかけてもらいました。僕の打率とホームランの数字を見ながら、“10割、ホームラン2本ってどういうことだ?”“いや、まだ2打席しか立っていないんです”と(笑)」

そういうと村上は、懐かしそうに笑った。

見ているほうまでスカッとするようなフルスイングが、村上の持ち味だった。だが、もともとは右バッター。印旛高時代、蒲原弘幸監督の目を盗んだつもりで、おもしろ半分に左打席で打っていたところ、たまたま監督がふらりと現れた。大目玉を食うかと思いきや、オマエ、左もいいじゃないか、よし、これからは左で打ってみろ……もしこのとき、蒲原監督が村上の左打席を目にしていなかったら、デビュー2打席代打ホームランという項目は、おそらく日本のプロ野球史に空白のままだったろう。

3年時には月山らとともにセンバツに出場。決勝では、9回表まで1対0とリードしながらPL学園にサヨナラ負けしているが、村上はこの準優勝チームの一番・セカンドとして、5試合で7本のヒットを打っている。だが、ホームランはない。

「プロに入ってからもそうですが、高校時代からそんなにホームランバッターじゃなかったですよ。公式戦で4、5本も打っていないんじゃないですか。そんな僕が、たった一人しかやっていないホームランの記録を持っているなんて、本当に不思議です。巡り合わせとしかいいようがないですね。現役時代に一度、姓名判断をしてもらったことがあるんですが、“あなたは天職についている。プロ野球は、あなたの天職だ”といわれたんですよ。なにかしら、運があったのかもしれません」

巡り合わせといえば、“初日”とか“初めて”によくよく縁がある。

90年の開幕当日。球場に着き、車から降りようとしたときに、腰に衝撃が走った。ぎっくり腰。初日からケガか、またファームで調整か……と気持ちがなえかけたが、ワラにもすがる思いで河村コーチに打ち明けた。腰をやってしまいましたが、一振りならいけます、と。村上のバッティングを買っていたコーチは、監督には内緒にしておくから、練習は要領よくやれ、と見逃してくれた。代打で使われると、ファウルを打ってもオシマイという腰の状況のためか、一振りにかける集中力で、1カ月ほどは5割近い高打率が残った。ケガの功名。そうこうするうちに腰は快癒し、折しもファーストを守るブーマーが自打球を当てて骨折する。代役として、村上に白羽の矢がたった。だからこの年、開幕初日にケガをしながら、村上は112試合に出場している。スタメン出場も多かった。これは、15年のプロ生活のうちで自身最高の数字である。

腕相撲では女子にも負ける非力ゆえ

174cmと、決して体には恵まれていない。取材したこの当時、村上は豊田自動織機女子ソフトボール部のコーチを務めていたが、女子選手と腕相撲をとっても負けるくらいで、パワーもない。だから、いかにタイミングをとり、いかに体のバネを最大限使うかが勝負だった。それには、とにかく数を打ち込んで自分のフォームを固めるしかない。プロに入ってからは、飲みに出かけても、帰ってからマシン相手に格闘する日が続いた。

そういう積み重ねが知らぬ間に体に無理を呼んだのか、村上はとにかく周期的といっていいくらいにケガに見舞われた。5年目の86年のキャンプでは、雨天練習場でふざけ半分にサンドバッグをけとばしたら、当たりどころが悪くて肉離れ。3カ月ほど、歩くのもままならなかった。試合でホームランを打ちはしたものの、軸足が掘れた土に引っかかって、ふくらはぎに肉離れを起こしたこともある。このときは、走り出すこともできず、打席内で痛みをこらえた。ベンチは“やけに長いこと打球の行方を見ているな”と思ったらしい。

96年にも、肉離れで戦列を離脱していた。5月にやっと一軍にあがったと思ったら、その初日(これも初日だ)のフリー打撃で、あまりにも強く振りすぎてあばらを骨折し、肉離れも再発させた。33歳。体のあちこちにガタがきていたし、結局このケガが引き金で、村上はこのシーズン限りで引退する。ケガに泣いた最後の2年間は、一軍では1試合も出場できなかった。プロ15年で456試合に出場、750打数188安打、通算打率.251、放ったホームランは、通算18本。

「その18本のうち初めの2本が、曲がりなりにもプロで15年間できた運の始まりでした。やっぱり、ホームランというのは魅力的ですね。運を運んでくるし、僕みたいな選手でも記録に残るわけですから」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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