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若生正廣氏勇退。東北高時代のダルビッシュとの秘話 その3

楊順行スポーツライター
若生正廣氏は2011年には、九州国際大付を率いてセンバツ準優勝(写真:岡沢克郎/アフロ)

 星飛雄馬に大リーグボール養成ギプス(わからない人は検索してね)があったように、東北高校時代のダルビッシュ有には、変化球養成ボールがあった。

「その1」で書いたように、高校1年の夏に東北が宮城県大会で敗退すると、ダルビッシュは一時実家に帰省した。若生正廣氏は内心、「このまま戻ってこなかったらどうしよう……」と気をもんだが、1週間程度でダルビッシュが戻ってくると、新チームが本格的に始動することになる。これを機に若生氏は、「ダルビッシュ有 大投手への道」という10カ条を授けた。過去の指導経験や自分の哲学、あるいは感銘した書物などをひっくり返して考え出した、心・技・体を鍛錬する指針だ。ダルビッシュはA4にプリントされたそれを、1メートル大に拡大し、四六時中目に入るように、高井雄平(現ヤクルト)がいなくなった部屋の天井に貼ったという。

変化球養成の秘密兵器

 さらに、若生氏が手渡したのがある秘密兵器だ。

「どこかの海外土産でもらった2つの玉でね。金属製のピンポン玉ぐらいの大きさで、中に鈴が入っているんだ。後藤伸也(元横浜)がいたときにふと思いついて、その2つの玉を手の中で遊ばせたんだよね。昔、指先の自由がきかなくなったお年寄りがよく、クルミを2つ握ってたでしょ。あれと同じ。そうすると……」

 やがて、変化球のキレが驚くほど増したのだ。理由は分からないが、ヒマさえあれば手の中で転がすうちに、無意識に指先を使うために、感覚が鋭くなったのかもしれない。この"変化球養成ボール"は、後藤から高井と歴代のエースに受け継がれ、高井の引退後はダルビッシュが手にしたわけだ。ちなみにこの秘密兵器、若生氏は九州国際大付(福岡)、埼玉栄でも「これは」という投手に与えてきた。埼玉栄から今季Hondaに入社した米倉貫太もその1人で、米倉はこの春から早くも公式戦に登板している。若生氏はいう。

「中に鈴が入っているから、手の中できれいに転がるといい音が出るけど、そこまでになるのがむずかしい。ひとつならともかく、2つともきれいに転がすのは並大抵じゃないんです。後藤にしても高井にしても、いい音がするまでにはそれなりの時間がかかった。だけど有はいとも簡単に、1週間ほどでいい音が鳴るようになりましたね。もともと、ミクロの感覚で指先の動きを支配できるほどの繊細さがあったんだろうね」

 ダルビッシュはのち、リリースのほんの瞬間、自分の感性でボールの縫い目に指を引っかけたり、はずしたりしてボールを動かすことが可能になったという。そういう芸当は、この"変化球養成ボール"によって、指先の感覚が研ぎ澄まされたことと関係があるかもしれない。

 怪物はまだ1年生ながら、徐々に本領を発揮していった。身長の伸びが続いていたため、無理をさせないように配慮しながらも、8月下旬から公式戦に登板。10月中旬の東北大会では、2試合で救援したあと準決勝、決勝と完投。盛岡大付(岩手)との決勝では、最速は143キロながら、4安打完封という見事な投球だ。その1カ月後の神宮大会でも、近畿チャンピオンの平安(京都・現龍谷大平安)を完封。翌03年のセンバツで、全国デビューを飾ることになる。もっともその大会は、「その2」で書いたように、アクシデントに見舞われて不本意な結果に終わるのだが……。

03年夏の甲子園、東北は初の決勝進出

 雪辱を期した03年の夏。東北は、ライバル・仙台育英との宮城大会決勝を制して、甲子園に乗り込んだ。若生氏にとっては、夏の甲子園は初めてのことだった。筑陽学園(福岡)との初戦は、ダルビッシュが腰痛を訴えて途中降板したものの、真壁賢守が好投して快勝。続く近江(滋賀)戦は、要所を締めたダルビッシュが1失点完投。平安戦では、同じ2年生の服部大輔とすばらしい投手戦を演じ、延長11回で1対0。前年秋神宮大会のリベンジを期す平安を返り討ちにした。奪った三振はダルビッシュが15、服部が17という、珠玉の投手戦だった。

 鍛え上げたダルビッシュの肉体はこのころ、84キロにまで成長していた。とはいえ、まだ成長痛から完全には逃れ切れていない。だから若生氏は、つねにダルビッシュには自身の状態を正直に申告させた。投げられるのか、そうじゃないのか。そしてそれを、投手起用に反映した。現に平安戦から中1日の光星学院(青森・現八戸学院光星)戦では、ダルビッシュがヒザや腰に痛みを訴えたため、真壁に先発を託している。ダルビッシュは救援登板したが、試合後理学療法士に診てもらうと、ヒザと腰に炎症があり、さらに右すねの状態がよくない、との診断。すると若生氏は、江の川(島根・現石見智翠館)との準決勝では、采尾浩二の先発を決断する。「ダルビッシュの将来が優先」と、目先の勝利への誘惑を押さえつけたわけだ。

 この試合をダルビッシュの登板なしで乗りきった東北、いよいよ次は常総学院(茨城)との決勝である。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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