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物理の法則は味噌汁の「だし」である(中垣内祐一) アスリートの名言集 1

楊順行スポーツライター
1994年、広島アジア大会での中垣内祐一(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

●テニスを投げ出すくらいなら、ほかのなにをやってもダメ 松岡修造

 現在はスポーツキャスターとして、またタレントとしても熱い才能を見せている松岡修造さんは、1998年まではプロテニス選手。阪急グループの御曹司ながら、福岡・柳川高を中退し、ラケット1本を頼りにプロテニスの世界に飛び込んだ。勝負の世界は結果がすべて。負ければ収入もゼロで、下積み時代には安い航空券を必死で探し、重量オーバーで追加料金を徴収されそうになると、「あの人の体重は、私より10キロは重いはず」と、たまたま同乗する太ったお客さんを根拠に、慣れない英語で根気強く交渉したとか。そういう現役時代を振り返り、

「“世界中を飛び回って大変だね”とよく言われましたが、好きなことだから全然」

 1993年には、日本人男子として当時最高の世界ランキング48位となったが、そこからは「さあ、これから」というときに決まって、けがや病気というアクシデントに見舞われ、ランキングは急降下。地道にポイントを稼ぎ直すことになる。

「ケガや病気ばかりで、なんでオレだけ……とヤケになりかけたこともあります。でも僕にはテニスしかなかった。そのテニスを、ケガくらいで投げ出すようなら、ほかの何をやっても中途半端になるでしょう」

 自己最高位の翌94年には、病気で順位を大きく下げながら、松岡さんは95年のウィンブルドンでベスト8進出。日本男子としては、なんと62年ぶりのことだった。

●味噌汁は「だし」が決め手 中垣内祐一

 1990年代、日本男子バレーボールのエースとして活躍した中垣内祐一。現在は全日本男子の監督を務める。

 一般入試で筑波大に進学し、知性派として知られる中垣内とこんな話をしたことがあった。難解な幾何の問題や、ちんぷんかんぷんな物理の法則に出くわしたとき、これらが実生活でなんの役に立つんだろう……と思わないだろうか、と。中垣内曰く、「自分もとくに中学時代はそう感じていた」。ただ、「社会人になってから、一見生きていくこととは無縁に見える勉強でも、味噌汁のだしなんだと思うようになりましたね」。

 昆布や鰹でていねいにだしをとっても、味噌をただお湯でとくだけでも、味噌汁は味噌汁だ。味噌だけでもそれなりの味はする。また昆布や鰹は、だしをとったらお役御免だから、見た目はさほど変わらない。しかし、きちんとだしのきいている味噌汁のほうが、圧倒的にうまい。味の深みや、コクが違う。それと同じで勉強、あるいは知識や教養は、役に立つ、立たないではなくて、人生の味わいを豊かにするものだというのだ。

 スポーツでも、基本の反復や地道な走り込み、トレーニングは、単調だし、つらい。そのつらさが、技術の向上に直結するとは限らないから、なおさらだ。だが、トレーニング量が成果と比例するとは限らないとしても、トレーニングがおろそかだと、望みうる成果には確実に限界がある。大事な場面のイージーミス、持久戦でのスタミナ切れ……積み重ねのない小手先の技術は、だしのない味噌汁というわけだ。

●小さかったら、高く跳べ。その一言で吹っ切れた 西村晃一

 もうひとつバレーボールから。現在はビーチバレーで活動している西村晃一は、かつて、6人制バレーで活躍していた。ただ、身長は175センチ。2メートルを超す大男がごろごろいるこのスポーツでは、いかにも不利だ。スパイクを打てば、相手ブロックに止められる。逆に相手をブロックしようとすると、自分の上を軽々と越される。バレーをやめようと悩んだこともあった。そんなとき、父が言うのだ。「小さかったら、もっと高く跳べばいいだけのこと」。

 目が覚めた。跳躍力には自信があるし、敏捷性でも大きな選手を翻弄できる。トレーニングでジャンプ力をさらに伸ばした西村は、大きい選手とも互角にスパイクを打ち合うようになっていく。大卒後に入社した実業団チームは1年で休部したが、移籍したチームで全国優勝に貢献。そして、小柄な選手特有のすばしこい動きでレシーブのうまさをアピールすると、リベロ(守備専門のポジション)として全日本に選ばれるまでになるのである。

●文化を知らずにその国に行くのは、失礼でしょう 中田英寿

 1996年、アトランタ五輪を控えた若き中田英寿に、無茶なお願いをしたことがある。インタビュー後、読者になにか、プレゼントを提供してくれないか……。そのとき、快く取り出してくれたのが、司馬遼太郎の『アメリカ素描』という文庫本だった。理由をたずねると、

「ある国に行こうとするときには、その国の文化を学んでおきたいからです。そうでないと、失礼でしょう」

 こんなアスリートは、ちょっと珍しいのではないか。さらに当時19歳の中田が、いかに国民的作家にしても、司馬遼太郎を選択肢に入れていたことにも驚いた。のちにイタリアでのプレーを視野にしていた中田は、このころからすでに、イタリア語の勉強もしていたという。

 いくら技量と体力にすぐれていても、それだけで海外のチームで通用するとは限らない。その国の文化や習慣に積極的に溶けこみ、順応しなければ、どんなスポーツでも活躍はおぼつかない。実績十分の大リーガーが日本のプロ野球にやってきても、評判倒れに終わる例はよくあるのだ。中田がのちにイタリアなどで活躍した理由。一冊の文庫本が、それを象徴している。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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