中国・大連で「すきま」ビジネスで成功、ある日本人夫婦の23年
今年、久しぶりに訪れた大連で、20年以上も現地に根づいて事業を行っている「大連愛光」の倉永和男氏(73)に再会した。
同社は自動車など車両用のプレス板金樹脂コーティングによるハーネス止め絶縁クリップなどを生産する日系部品メーカーだ。こう書くとちょっと難しそうだが、要は車両に使う小さな「すきま部品」を長年、愚直に生産している中小企業だ。
私が倉永氏と知り合ったのは13年前。東京・武蔵野市にある亜細亜大学が行う海外教育プログラム「アジア夢カレッジ」を見学に行った際、インターンシップの受け入れ先として挨拶をしていたのが倉永氏だった。倉永氏の中国事業のいきさつなどを聞いて興味を持ち、現地を訪れたのが2004年だった。今回はそれ以来の再会なので、ずいぶん時間が経ってしまったが、倉永氏は私のことを覚えていてくれて、温かく迎え入れてくれた。
工場の場所は移転したが、同じ大連市内にある。大連空港から約1時間の風光明媚な場所だ。ちょうど訪れたときは「アカシアの大連」で有名なアカシアの花が満開だった。
倉永氏は1944年、中国黒竜江省ハルピン市で生まれた。大連でタイピストをしていた母親と、早稲田大学を卒業してNHK大連支局に勤務していた父親が結婚。父親の転勤先のハルピンで5人兄弟の末っ子として誕生した。2歳のとき、終戦により家族とともに日本に引き揚げた。
倉永氏は兄が設立した企業に就職するが「中国のどこかに工場を建てたい」という思いが募り、中国に渡った。まず北京鋼鉄学院(現在の北京科技大学)に語学留学して中国語をマスター。台湾の日系企業などを経て1994年に「大連愛光」を設立した。
倉永氏は「大連に決めたのは、やはり生まれ故郷である東北部の大都市だからでした」と語る。
しかし、事業はなかなか軌道に乗らず、10年以上も赤字経営が続いた。
転機が訪れたのは日系商社との出合い。大型の機材をコンテナに積んで日本に輸出する際、生じたデコボコの隙間に、細かいクリップを積んでみたらどうか、というアイデアが持ち上がったのだ。これが契機となり、クリップ生産を拡大。事業が安定化した。現在まで、他にクリップ専業メーカーがないため順調に経営してきた。クリップという「すきま」一筋で事業を行ってきたことが、今日まで続いた強みだ。
倉永氏に工場や社内を案内してもらった。
約250人いるワーカーの一部は工場脇の社員寮に住む。黒竜江省や同じ遼寧省内からやってきた労働者で、平均は30歳くらいだという。ワーカーの給料は約2500元(約4万円)くらいだというから、広東省の工場などよりもずいぶんと低い。遼寧省を含む東北3省は中国ではかなり景気が悪いほうだが、それでも昨今の若者はなかなか出稼ぎに出たがらないらしく、人材不足には頭を悩ませている。
そんな中、同社の何年も勤め続け、平均年齢もしだいに上がっているが、「それは居心地がいいから」と倉永氏はいう。長年大連で苦楽を共にしてきた奥さんも、女子社員やワーカーたちに手芸や料理を教えるなど、まるで家族のような温かい付き合いをしている。工場のすぐ横には畑を作って野菜を手作りしている。社内のちょっとした掲示も手作りで、来客には心のこもったおもてなしを心がけているという。
大連名物のアカシアの花も、山から摘んできて天ぷらにし、社員食堂の食卓を飾ることがあるそうだ。
帰り際、私も奥さんが大連で積んだスミレで作った「スミレの砂糖漬け」を分けてもらった。帰国後、紅茶に浮かべたら花が開き、いい香りがした。
「時代とともにワーカーさんも変わる。でも、いつかこの工場を離れても、日本人と一緒に何かを手作りしたことを、ふとしたときに思い出してくれたら」と奥さんはいう。
生き馬の目を抜く中国。スマホ決済とシェア自転車というITの大革命が起き、猛スピードで変わっているのが今の中国人だ。
だが、目まぐるしく変化する中国にも、まだこうした日系工場は存在する。広東省などにも多いが、倉永氏同様、若いときに中国で独立し、事業を立ち上げて中国社会に貢献してきた日本人経営者は少なくない。いずれも信念を持って中国に根をはり、中国人社員から慕われてきた人々だ。
また、機会があったら、ぜひアカシアの花咲く頃に訪れてみたい。