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因縁の対戦は明徳義塾勝利。松井を5敬遠した河野"投手"はそのとき……

楊順行スポーツライター
帝京平成大の監督に就任した河野和洋氏。千葉県市原市のグラウンドで(撮影/筆者)

「11月9日から、監督になりました!」

 電話をいただいた。河野和洋さんからだった。今年の2月からコーチを務めていたのが、千葉県大学野球リーグに属する帝京平成大学。そして、2季を終えて監督になったという。1992年夏の甲子園。河野さんは、明徳義塾(高知)の投手として星稜(石川)と対戦した。試合は、3対2で明徳が勝利するが、怪物・松井秀喜(元ヤンキースなど)は5打席すべて、一塁に歩かされた。いわゆる"松井5敬遠"で、投手だった河野さんはその当事者も当事者だ。

 その後、専修大では野手として黒田博樹(元広島など)らが同期。2部も含めて通算111安打、21本塁打を記録している。社会人のヤマハ時代の2年間では、都市対抗にも出場した。さらに、アメリカの独立リーグでもつごう6年間プレー。帰国後は、クラブチームの千葉熱血MAKING(いまなにかと話題の、森田健作・千葉県知事肝いりで設立された)の選手兼監督として、2015年にはクラブ選手権のベスト4まで進出している。39歳だった当時でも、ばりばりの四番打者だった。16年に引退後は、

「それまでずっと野球ばかりだったんで、いろんな人と会ったり、さまざまな飲み会に参加しながら、人脈を広げる日々でした。明徳のOB会にも出ましたし、馬淵(史郎・明徳義塾監督)さんと何度もお会いしたり、修行といえる時期でした」

ようやく、指導者資格を回復

 18年12月には、学生野球の指導者になるための資格回復研修会を受講。従来、海外プロ野球経験者は対象外だったが、18年から受講可能となっていたのだ。そして今年2月には正式に資格を回復し、野球部強化に本腰を入れたい帝京平成大からコーチとして招へいされる。

「とにかく、いつでもグラウンドがあるっていうのがうれしいですね」

 当時グラウンドに遊びに行くと、河野さんはそういった。

「なにしろクラブチーム時代は、専用グラウンドなんかあるわけないですから、グラウンドの確保が大変でしょう。朝の5時から整理券配布に並んだり、あちこちの自治体に登録して抽選を申し込んだり。だから、そこにいつも使えるグラウンドがある、というのはすごくありがたいんですよ」

 わかるわかる。筆者の草野球チームも、自治体に30人くらい登録し、全員がピンポイントで同じ日の同じ時間帯、同じグラウンドの抽選を申し込んで当選するかどうかなのだ。

 それはともかく、河野さんからは何回も5敬遠の話を聞いた。たとえば……こらあかん、と思ったのは、明徳が勝ったほうと対戦する星稜と長岡向陵(新潟)の一戦をレフトスタンドから見たときだ、という。

「初回いきなり松井に回り、カーンと音がしたと思ったら速すぎて打球が見えないんです。"あれ、どこ行った?"と思ったら、そのホームラン性のライナーを、ライトがやっとつかんでいました。馬淵さんも"あれはバケモン"というし、星稜戦の先発を告げられたときには、"松井はもう、相手にせえへんから"。いろんな報道はありますが、敬遠しろ、じゃないんですよ。ただ試合では、5打席ストライクなしの20球、全部ストレートです。ヘタに変化球を投げて引っかかったりしたら、ストライクゾーンに行きかねませんから。最初は"おかしいな、ストライクが入らない"と首をかしげる演技もしましたけど(笑)。自分が145キロでも投げられれば勝負もしたかったでしょうが、背番号8でわかるように本職のピッチャーじゃないし、プライドも何もないですよ(笑)」

 松井の注目度が高かっただけに、この試合は「高校野球らしくない」と社会問題化し、勝った明徳はすっかり悪者になった。宿舎には嫌がらせや抗議の電話が殺到し、馬淵監督ばかりか選手も宿舎から出るに出られず、練習の行き帰りはパトカーが付き添った。高校生がそれじゃあ、平常心で野球ができるわけもなく、明徳は次戦で敗退した。

「ただね……その試合、負けたあとのミーティングで、馬淵さんが号泣したんです。聞き取れたのは、"オマエらは悪うない、オマエらはよくやった"という言葉くらい。当時はいくら批判されたとしても、そういう人ですから僕らは信頼してついていったんです。馬淵さんはあのとき、40歳前。自分がその年代になったとき、あらためてすごい人だと感じましたね」

結局、松井には7四球

 おもしろい後日談もある。後年、すでに引退していた松井と、テレビ番組の企画で対談し、1打席だけ対戦したが、そのときもフルカウントからフォアボール。もう1打席、オンエアされなかった対戦でもフォアボールで、「だから松井に対しては、7打席すべて、ですね(笑)」。

 いま行われている明治神宮大会では、明徳と星稜があの92年以来、27年ぶりに公式戦で対戦した。母校の応援と、関係者への挨拶のため球場に出向いた河野さんは、「両校がいつか、甲子園の決勝で対戦できたらいいですね」と話している。そして……監督を務めることになった帝京平成大は、90年春のリーグ加盟(当時は帝京科学技術大)以来、99年春には3部から2部に昇格し、最高成績は2部の2位。今秋は3位だったが、近いうちには城西国際大、中央学院大、国際武道大などが属する1部に殴り込みをかけることになるだろう。

 同大のコーチに就任したとき、河野さんはこんなふうにも語っていた。

「将来的には、高校の指導もできる。もし甲子園に出て、馬淵さんと対戦できたらおもしろいですね」

 もしそうなったら……確かにおもしろい。大学の監督になったからには、しばらくはおあずけだろうけど。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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