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多くの教育研究者が問題視している、奈良教育大学が附属小に対してやった「とんでもない」ことと「攻撃」

前屋毅フリージャーナリスト
教育研究者たちも、「声明」を発表する「とんでもない」ことだった 撮影:筆者

 奈良教育大学が同大学附属小(以下、附属小)で行われてきた教育を「教科書どおりではなく不適切」という報告書を公表したことが波紋を広げるなか、3月4日付で教育研究者有志が「教育課程の創造的実践を通じたゆたかな教育の実現を求めます」という声明を発表した。

|「攻撃」である

 そこには「呼びかけ人」として17名の教育研究者が名前を連ねているが、その後、声明に賛同する教育研究者の数は急速に増え、3月10日時点で呼びかけ人と賛同者の合計で378名にも達している。それほど、多くの教育研究者たちが奈良教育大学のやったことを批判的にうけとめているということだ。

 声明は「不確定性が高い営みである教育に、試行錯誤は不可欠です。だからこそ、とりわけ附属学校では、教師が積極的に研究を行ってきました」として、附属小の教育は「不適切」ではなく「評価すべき授業」としている。

 そして、「私たちは、学校における教育課程の創造的実践を前進させ、多様な子どもたちにあった、よりゆたかな教育をしたいという学校・教師の創意工夫を支援する政策、制度、行政を望みます」と求めている。

 声明の呼びかけ人のひとりである千葉大学名誉教授の片岡洋子氏は、奈良教育大学の行為を「とんでもない」と批難し、「攻撃だ」と言う。その片岡氏に、何がとんでもないことなのか、何が攻撃されているのか、を聞いた。

|「とんでもない」ことが起きた

―― 奈良教育大学が附属小に対して「報告書」を提出し改善を求めたことを、最初に知ったときの率直な感想を聞かせてください。

片岡 2024年1月の新聞報道で知りましたけど、「とんでもないことが起きた」というのが最初の感想でした。教育と学問研究の自由が土台にあるべき大学で、こんなことが起きてしまったからです。

 奈良教育大学と同じ国立大学法人である千葉大学の附属小で、2015年度から2019年度までの5年間、私は校長を務めていました。その経験からも、「とんでもない」とおもいました。

 もし私が勤めていた千葉大学で同様のことが起きたらどうだろうと考えましたが、大学や教育学部が一方的な調査をして、附属小に対して一方的に「不適切」と言ってくることは、まず考えられませんでした。外部から問題の指摘があったら、「どうなっているのか?」と附属小に問い合わせ、附属小は教育方針について説明し、そこで話し合いがもたれ、改善すべきことがあるなら改善策を一緒に考えていくとおもいます。その合意形成のプロセスが教育と研究の自由の実質をつくるからです。

 全国に国立大学法人の附属小がありますが、学問の場としての大学に附属しているわけですから、各附属小ごとの方針の差はあっても、ベースは同じはずです。今回の奈良教育大学のケースも、同じプロセスをとるべきだとおもいます。

 にもかかわらず、大学側が一方的に形式的な調査をして附属小に「不適切」だと改善を押しつけています。他の国立大学と附属学校で、こんな対応をした話は聞いたことがありませんでしたので、ビックリしました。

|いちはやく行動することが必要、と考えた

―― 「教育研究者有志」で「緊急声明」を発表されましたが、呼びかけ人として17人の研究者の方々が名前を連ねていらっしゃいます。みなさん、同じ思いだったのでしょうか。

片岡 議論すれば考え方の違いはあるとおもいますが、合意できる内容で緊急声明の文章を作成しました。新聞報道があった翌日くらいから知り合いの研究者と「これは見過ごせない問題だ」とメールで意見交換をしていたのですが、いくつかの話し合いの場を経て、ようやく緊急声明を出すことができました。

 いちはやく行動することが必要だったので、「有志」で呼びかけることにし、発起人で声明文を検討し、ウェブサイトを立ちあげて、呼びかけ人になってくださる教育研究者を2日間で募りました。そして応答してくださった方々に呼びかけ人になっていただきました。呼びかけ人としてのお返事が間に合わなかった方々も、その後、賛同者になってくださっています。賛同締め切りまで1週間もないのですが、どうにかしたいとおもっていた教育研究者がとても多いのだと感じています。

―― 声明には、「国立大学附属学校には、実験的・先導的な学校教育を行うことが期待されています」とあります。奈良教育大学は「不適切」と指摘していますが、むしろ附属小としては当然のことをやっていたにすぎない、ということでしょうか。

片岡 私が千葉大附属小の校長をやっていたときの副校長は、千葉県採用の教員で、交流人事で附属小にきていました。その副校長が言っていたことで、印象深く覚えていることがあります。それは、「附属小の教育は、現行の学習指導要領をのりこえる新しい学習指導要領をつくるための教育でなければならない」というものでした。そのとおりだとおもいました。

 公立学校にはできない実験的・先導的な教育をつくるための研究をするのが附属学校の役割であり、それを公開研究会で発信しています。全国どこの附属学校も公開研究会をおこないます。子どもたちがどう何を学んでいるか、教師がどんな教材の工夫をしているかなど、公開研究会が附属の教育と研究を検証する場です。奈良教育大学の附属小がやっていたことも、攻撃されるようなことではありません。

|「攻撃」でしかない

―― 「攻撃」というのは?

片岡 私は生活綴方(作文)教育の研究をしてきましたので、1970年代半ばに岐阜県の恵那地域の生活綴方教育が低学力につながるなどの攻撃をうけたことと重なってしまって、攻撃と言ってしまいました。自分の生活をみつめながら、生きることや学ぶことについて文章に表現し、考え合うのが生活綴方教育です。それをやっていると授業時間数が足りなくなるのではないか、間違った教育だ、と議会などから攻撃されました。

奈良教育大学側が一方的に「附属小のやっていることは間違っている」としか言っていないようにおもえたので、50年前の恵那の教育攻撃と重ねてしまいました。その当時、攻撃された先生は高齢になっていますが、奈良教育大学附属小のことを話したら、「昔と変わらないことをくり返している」とあきれていました。奈良教育大学附属小でも日記や作文で表現する教育を大事にしてきましたので、そうした教育への攻撃という点で共通しているのではないかとおもってしまったのです。

―― 「声明」は、タイトルにも「創造的実践」という言葉が使われています。いま、創造的実践が必要とされているということでしょうか。

片岡 教育が現状のままでいいとは、文科省も考えていないはずです。かなり前から文科省も、「個性に応じた」とか「個別最適化」、「協同の学び」など、いろいろ方向を示してきてはいます。それを実際につくっていくのが、創造的実践です。しかし、学校現場では思うように方向転換できていません。

 なぜ方向転換できていないのか、それを真剣に考えなければいけないときでもあります。日本の学校教育の大きな課題なのです。

―― なぜ、方向転換できないのでしょうか?

片岡 いろいろありますけど、ひとつには「教科書依存的な授業」だと、私はおもっています。方向転換するには、子どもたちと接している教師たちが、子どもたちの現状にあわせて自主教材をつくるとかの自由度が必要です。

 それができないのは、「大綱的基準」であるはずの学習指導要領が「解説」という分厚い文書になり、それが教科書に反映され、その教科書の「指導書」にそった授業をせざるを得ないからです。教科書どおりに教えなければならない、あるいは教科書どおりに教えていれば間違いがないかのような状況が、創造的実践を阻んでしまいます。

 学習指導要領は根本的なところを大づかみに示すような、もっと「大綱的」なものになったほうがいいし、先生や学校がもっと子どもたちの現状にあわせた授業づくりをできるようにすべきです。

 そういう動きを阻むようなことはしないでください、というのが私たちの「声明」です。子どもたちの現状にあわせた創造的実践を抑えようとしているだけでも、今回の奈良教育大学の報告書はおかしい、とおもいます。

|創造的実践を奈良教育大学は否定するのか?

―― 奈良教育大学附属小は、まさに、そういう創造的実践としての授業づくりをやっていたわけですね。

片岡 そうです。これからの学校教育を考えるうえでも、附属小が創造的実践に取り組むことは必要で、役割でもあります。教科書よりもっとよい教材をつかった授業とか、単元の履修時期の順番を変えるとか、そういう工夫をするのは公立の学校でも当たり前にできるようになっていく必要があります。そういう授業でなければ、子どもたちの成長を支えていくことはできません。

 にもかかわらず奈良教育大学の報告書は、履修の時間数が足りないとか、教科書のここを飛ばしているとかの指摘に終始しています。いま必要とされているところに目が向いていません。時代に逆行しているとしかおもえません。

―― 教育は誰のものだと考えているのか、疑問におもってしまいます。教育は誰のものか、片岡さんはどのように考えていますか。

片岡 1989年11月に国連総会で採択され、日本が1994年に批准した「子どもの権利条約」の基本的な条文が、ようやく「こども基本法」や「生徒指導要領」にも引用されるようになりました。教育を受けるのは子どもたちの義務ではなく権利だということが、共通認識となる時代になってきています。

 義務教育という言葉から、いまでも、教育をうけるのは子どもの「義務」だと誤解している人が少なくありませんが、教育を受けさせる義務を負っているのは、おとなであって、子どもにとっては「権利」なんです。教育は子どもたちのものです。でも、子どもたちが生きいきと学べるような教育でなかったら、子どもたちは拒否したり逃げたりしてしまいます。

 だからこそ、繰り返しになりますが、教え込むのではなく、子どもが主体的に学ぶことができる創造的実践が必要なのです。

 奈良教育大学の報告書は、大人が何を教えたかが重要だという非常に単純な図式を前提にしています。だから、「教えていなかったからダメ」という話になるわけです。

 そこには、「子どもたちはどのように何を学んでいたか」の視点が欠けている

とおもうのです。いま必要とされているのは、子どもたちの学びをつくりだす教育

です。奈良教育大学の報告書が、そうした教育をつくることを萎縮させるのでは

ないかと心配です。そうならないようこの問題について教育研究者とこれからも

話し合っていきます。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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