これはヤバかった。豊臣秀吉に左遷させられた伊達政宗の深刻な不祥事
会社などで不祥事が起こると、人知れず不祥事を起こした社員を左遷することは、もちろん現在でもある。戦国時代、伊達政宗は不祥事を起こし、豊臣秀吉に左遷させられたので、その辺りの事情を確認することにしよう。
政宗が東北で侮れない存在だったことは、秀吉も十分に承知していた。天正18年(1590)の葛西・大崎一揆の際、政宗には一揆を扇動したとの嫌疑が掛けられたが、そこに一枚噛んでいたのが蒲生氏郷である。氏郷は秀吉の股肱の臣というべき存在であり、当時は会津を領していた、むろん、秀吉から政宗監視の役割も負わされていた。
一揆の終結後、政宗が葛西・大崎両氏の旧領を与えられた理由は、いくつか考えられる。一つは、一揆で争乱状態にある葛西・大崎旧領を与え、本領を召し上げることにより、勢力を削ぐという作戦である。長年築き上げていた本領から、新たな、しかも争乱の地を与えられることは、政宗にとって大きな負担だった。
もう一つは、東北における政宗の地位低下を目論んだということである。政宗の本領は氏郷に与えられることになったので、氏郷の立場は大いに上昇した。氏郷がさらに引き立てられたことにより、政宗の東北における地位低下を招きかねない様相となり、このことは政宗にとって屈辱的なことだった。
こうした政宗の心中は、当時の書状でも確認できる。いよいよ岩出山に移るという前日、政宗は仕置や国分について家臣に説明すると書き残していた。家臣の間にも少なからず、今回の措置に関して動揺が広がっていたのであろう。つまり、葛西・大崎旧領への移封は、明らかな左遷だったのだ。
居城に関しては、大崎氏の旧臣・氏家氏が本拠とした岩出沢城を指定され、天正19年(1591)9月に移った。この城は、大崎領の検地を行っていた徳川家康が改修を行い、政宗に引き渡されたものである。政宗は、慶長6年(1601)に仙台城に移るまで、ここを本拠地とした。
こうして、政宗の保持する石高は、この時点で58万石になった。仙台藩62万石への第一歩といえよう。岩出沢城は典型的な山城であり、標高108メートルの地点に築かれた天然の要害であった。また、本格的な城下町が形成され、町人の居住区の外側に武士が集住するなど、防禦体制が固められたのである。