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大久保嘉人、サッカー選手人生の完結。松田直樹も愛した「命がけの純粋さ」

小宮良之スポーツライター・小説家
(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

大久保らしい最後

 2021年12月12日、さいたま。大久保嘉人(39歳)は、20年に及ぶプロサッカー選手人生の幕を閉じている。

 天皇杯、準決勝の浦和レッズ戦で先発出場した。序盤、フリーになった瞬間には遠目からでも一撃を狙っていた。クロスに対して飛び込む迫力もあった。サイドからのクロス、GKの前に入ったにもかかわらず、出さない味方に対してもんどりうって抗議していた。ゴールは決められなかったが、大久保らしい引き際だった。

 1-0とリードされた後半19分、交代でベンチに下がっている。チームは2-0と敗れ去り、自動的にラストマッチになった。唯一、得点の気配を見せていたし、最後までピッチに立ってほしい、という空気はあったが、物事の終わりは意外と呆気ないものだ。

 エピローグとしては悪くない。

大久保とのインタビュー

 濃厚なプロサッカー選手人生だった。

 2013年から3シーズン連続、大久保はJリーグ得点王に輝いている。191得点は歴代最多得点を誇る。一方で警告数もJ1歴代最多で104回、退場も12回で最多。クラブレベルでは無冠だが、日本代表としては2度のワールドカップに出場し、歓喜も失望も味わった。

 まさに波乱万丈だ。

 筆者はマジョルカに入団した大久保と2005年1月から半年間、スポーツ雑誌の連載企画で密着取材をしている。バルセロナからマジョルカ島まで、週1のペースで彼を追った。それは書き手として初めて任された選手ルポ連載で、それなりに覚悟して臨んだ。

当時の連載、デビュー戦で劇的なゴール
当時の連載、デビュー戦で劇的なゴール

「大久保は記者を馬鹿にしているというか、あまりしゃべらない」

 初回のインタビューを前に、編集部からはそう脅されていた。

 指定されたインタビュー場所は、彼の自宅だった。大久保はソファにどかっと座り、ホットミルクを口をすぼめて息を吹きかけ、大事そうに冷ましながら飲んでいた。マグカップになみなみと注がれた牛乳の香りが、部屋に満ちていた。彼は今と違い、人との距離感を縮める気遣いなどなく、人見知りの性格を不機嫌さで隠しているようだった。

 そうした選手は、最初からどかどかずかずか入り込むと、完全に門を閉ざしてしまう。質問というよりは、自分のことを話し、伝える気持ちで接した。長い付き合いにするつもりだったし、45分のインタビュー、半分は捨てるつもりだった。案の定、序盤は敵意を感じたが、構わずに話し続けると、それが消えてきて、代わりに好奇心が伝わっていた。徐々に、訥々と言葉を発するようになった。

「サッカーを知らん奴に限って、システムの話とかしよるけん、むかつく。そういう記者には『そうっすね』って適当に答えていた」

 そうっすね、という返事は一度もなかった。

 彼はミルクを飲み干していた。

当時の連載ページ。1回目のインタビュー
当時の連載ページ。1回目のインタビュー

ミルクからミルクコーヒー、そしてコーヒー

 大久保はミルクだけでなく、コーヒーも好きで、いつの間にか「カフェ・コン・レチェ」を一緒にたしなみながらのインタビューが定番になっていた。

 カフェ・コン・レチェはスペイン語で「ミルク入りのコーヒー」。イタリアではカフェラテになる。冷たいミルクを入れられることもあるので、筆者は必ず「熱いミルクで」と言い足した。大久保はあまり気にしなかった。ちなみにスペイン人は山盛りの砂糖を入れるが、ミルクが甘みを出しているので、入れないのがお勧めだ。

 コーヒーを何杯もお代わりしながら、大久保はいろんな話をした。海沿いのホテルのオープンカフェで港を一望しながらカフェすることが多かった。気持ちが晴れやかになったし、撮影にも適していたからだ。

 ある日、カフェ・コン・レチェを飲みながら2時間以上の長いインタビューを終えた後のことだった。

 大久保は立ち上がり、ズボンのポケットからじゃらじゃらと小銭を出した。

「これで足りる?」

 そう言って出てきた小銭は、コーヒーが20杯くらい飲めるほどだった。いつも驕られていて悪いな、と思ったのか。あるいは当時、新婚だった妻に言われたのかもしれなかった。ただ、その金銭感覚のなさに愛嬌があったのを覚えている。ピッチでの堂々とした様子とのギャップだ。

 以来、大阪、ヴォルフスブルク、神戸、川崎など彼がプレーした町で、取材を続けてきた。

「今は大人やけん。ブラックの方が好きやね」

 大久保はそんなことを言うようになっていた。それを聞いて、点と点が線でつながったようで面白かった。牛乳臭かったルーキーが、渋みや苦みを楽しむ円熟の境地に達した。

 それは長い間、取材を続けてきた人間の役得とも、勝手な感慨とも言える。

「大久保」が形作られた少年時代

 大久保は変わったような気もするし、まったく変わっていない気もする。

 中高6年間、大久保は黙々とボールを蹴り続けている。仲の良いチームメイトを誘い、自主練を欠かさなかった。近所の大型スーパーの駐車場に空き缶を持ち込み、コーンに見立てて短い間隔で並べ、そこを細かいタッチのドリブルでターンし、技とスピードを競い合ったという。日が暮れてからもわずかな電灯の明かりを頼りに、少年は"ボールと対話"していた。

「うまくなりたい」

 その無邪気で単純な衝動は、彼のプレーヤーとしての性格を形作った。大久保自身は当時の自分をあまり評価していないが、周りからしたら成長は眩しいほどだったという。

「嘉人はピッチで人が変わる。敵選手の足は知らん顔して踏んづけるし、とにかくえげつない。その迫力がどんどん増してきた」

 国見時代の友人たちは、口を揃えていた。

 大久保は報復プレーでイエローをもらうことはしばしばだった。そのたびに小嶺忠敏監督から「自分のことだけじゃなく、チームのことを考えろ」と叱られた。決して模範的ではなかった。

 ただしチームメイトたちは、そんな彼を頼もしくも思っていた。

「嘉人がいれば、必ず勝てる!」

 事実、大久保を擁した国見は高校選手権優勝など高校三冠の偉業を成し遂げている。

 時を経て、彼は日本を代表するストライカーになった。意識的に「変身」を重ねてきた結果だろう。なりたいものに成り代わってきたのだ。

松田が愛した圧倒的な純粋さ

 本質が変わったわけではない。サッカーに対する姿勢は、今も混ざりっ気がなく、純粋に映る。真っ新でいられるからこそ、何者にでもなれた。

-多くの指揮官の指導を受けてきて、選手として一番、監督に求めることは?

 そんな質問を投げた時、大久保はこう答えていた。

「ない。俺は監督のやり方に合わせるから。選手は監督に合わせるもんでしょ? そうしないと、プレーできんし、W杯にだって出られない。俺が合わせてなかったら、出られていないと思う。もちろん、ピッチで考えるのは選手やけどさ」

 大久保はサッカーに対しては誰よりも真摯だった。

 野蛮で粗暴に見えても、可愛らしく憎めない。物事を損得で考えるところがなかったからか。少女のような奔放さと繊細さを持ち、自分が取材した選手では松田直樹と重なった。

「嘉人のプレーは好きだな」

 松田はそう語っていた。

「(南アフリカワールドカップ直前の試合を見た後で)戦っているのは、嘉人くらいだった。あいつは命がけっていうかさ、見ていて、なんか熱さが伝わってくるでしょ?サッカー選手が、グラウンドで戦っているって」

 命がけで戦った者だけが知る風景がある。

大久保のメッセージに見える正体

「サッカーは結局、勝負だから。それに挑む覚悟があるか。迫力を出せる選手が少ないよ」

 大久保は言う。彼は負けることを、自らに対して許さなかった。

「自分のポジションを争うライバルがいるんやったら、そいつを削ってでもいいから出る、という気迫を見せて欲しい。最初は文句を言われるんやろうけど、その後で活躍すれば、“お前、成長したな、すごいわ!”ってなるわけやん!だから若い選手に話しをして、一時は練習からバチバチ激しくやるんやけど、なかなか続かん。足元がうまくても、練習から本気でやっとらんと、試合でその技術は出せんから」

 後輩への叱咤は、自身のプレーヤーとしての流儀でもあった。彼のようにピッチで闘争心や執着心を出せる選手は、プロの世界でも数えるほどだ。

 だからこそ、大久保は特別だった。記録を作ったし、記憶にも残るだろう。

 一人のサッカー選手の物語の幕が閉じた。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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