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『イニシェリン島の精霊』で話題沸騰のロケ地、イニシュモア島の魅力を解説

清藤秀人映画ライター/コメンテーター
『イニシェリン島の精霊』

映画が持つロケーション映画としての魅力

ある日突然、絶交を言い渡す男と言い渡された男の間に勃発する終わりのない争いや、劇中に散見される比喩の解釈を巡って議論沸騰の映画『イニシェリン島の精霊』は、現地時間来月12日に発表される第95回アカデミー賞の有力候補だ。同時に、本作はロケーション映画としての魅力も兼ね備えている。ロケ地となったアイルランド西側に位置するアラン諸島や周辺の雄大な風景が、旅好きの冒険心を否が応でも掻き立てるからだ。そこで、映画の解釈は一旦脇に置いて、ここでは劇中の印象的なシーンがどこで撮影されたかを含めて、具体的なロケ地ガイドをお届けしよう。

映画の反響を受けてアイルランド政府観光局が配給元のサーチライト・ピクチャーズの協力により制作した映画のメイキングビデオは、すでにYouTubeで600万回以上再生され、今年の夏あたりはアラン諸島を訪れる観光客が増えることが予想される。初夏から夏にかけてのアラン諸島は風光明媚で、幾分覚悟を持って出かけさえすれば、必ずやいい思い出になるはずだ。

ロケ地の一つ、イニシュモア島の忘れられない風景

さて、映画の主なロケ地に選ばれたのは、アイルランド本島からフェリーで渡れるイニシュモア島だ。ゴールウェイ湾に浮かぶアラン諸島には、他に本島に近い順にイニシィア島、イニシュマーン島という似た名前の島があるが、イニシュモアは最も遠くて最大の島。島名はアラン島で今も使われているケルトの古語であるゲール語で”大きな島”という意味らしい。監督(と脚本)のマーティン・マクドナーは子供の頃ゴールウェイに住んでいたことがあり、一度だけイニシュモアを訪れたことがあるという。そこで見た景色が余程強烈だったからか、劇中にはイニシュモアの代表的な風景である丘に敷き詰められた格子状の石垣や、大西洋の海風に向かって直角に立つ断崖絶壁が、印象的な背景として登場する。まずは、可能な限りロケ地を特定してみた。

パードリックの家
パードリックの家

島全体が遺産に登録されていた!

例えば、主人公のパードリック(コリン・ファレル)が妹のシボーン(ケリー・コンドン)や愛するペットたちと住まう石造の家は、イニシュモアの港町、ゴート・ナ・パカルにある港を見下ろす丘に建てられた。窓から港が見えた方がいいというマクドナーの要望に応えたものだが、建設を請け負った地元の石工たちにかかった負荷は半端なかった。アイルランドの遺産に登録されているイニシュモアでは、全ての建材は船で島に運び入れなくてはならず、格子状の石垣を移動させる場合は、石の一つ一つに番号を振って元の場所に戻さなければならなかったからだ。また、パードリックと島の飲み仲間、ドミニク(バリー・コーガン)が岩棚に座って密造酒を酌み交わす背後に見えるのは、イニシュモア最大の観光スポットで同じく遺産に指定されているドン・エンガス。映画ではそうでもないが、海に対してもろ直角にそそり立つ絶壁は、風が強い日などは高所恐怖症の人が近づくのはあまりお勧めできない。

背後に見える断崖絶壁、ドン・エンガス
背後に見える断崖絶壁、ドン・エンガス

第2のロケ地にも絶景が

一方、それまで親しい飲み友達だったはずのパードリックに突然絶縁を突きつけるコルム(ブレンダン・グリーソン)の家が建てられたのは、イニシュモアから北に140kmのメイヨー州にあるアチル島。アイルランド本島とは橋で繋がった第2のロケ地だ。古い漁師小屋を改造したコルムの家は古い蓄音機や工芸品のコレクションで埋め尽くされていて、素朴なパードリックの家とは対照的な設えになっている。また、本来は仲間同士が酒を飲みながらおしゃべりを楽しむ場所から、パードリックとコルムの戦場と化していく地元のパブや、コルムが訪れる教会は、アチル島にある既存の建物を活用したもの。印象的な赤いチェックのスーツを着たシボーンが佇むのは、アチル島にあるアコリモア湖畔だ。

海風に抗いながら立つ村のパブ
海風に抗いながら立つ村のパブ

2つの島の違いが2人の男たちの隔たりを暗示していると語るのは、コルム役のグリーソンだ。アチル島には巨大な山があるのに対して、イニシュモア島には木すらない。そこに、自分のやりたいことに人生の晩年を捧げたいと宣言するコルムの頑固さと、その言葉にただ戸惑うしかないパードリックの平凡さが暗示されているというのが、グリーソンの、そして、マクドナーの考えだ。映画に隠されている様々なメタファーの中でも、島の地形にまつわるこのアイディアは面白すぎる。イニシュモアには本当に木が生えてないのか?

島へはフェリーかセスナで

海側から望むドン・エンガス
海側から望むドン・エンガス写真:ロイター/アフロ

ここで、改めてイニシュモア島について紹介しよう。イニシュモア島に渡る手段としては、冒頭で紹介したようにフェリーが一般的だ。島の真北にあるロッサビル港からだと約40分で島に到着する。フェリーは1日3便、年間を通して運行している。また、ゴールウェイ港を出航して途中でアイルランド西岸の絶景、モハーの断崖を経由してイニシュモアに向かう便は1日1便で所要時間は1時間半、4月から10月までの期間限定で運行されている。このコースは2021年に”ベスト・アイリッシュ・エクスペリエンス賞”を受賞しているので、予定を合わせて乗ってみる価値があるかも知れない。また、せっかちな人はゴールウェイの西17キロに位置するコネマラ地方空港からセスナに乗れば、たった10分で到着する。便数は1日4便。空港までのアクセスが多少面倒だが、イニシュモアで遊ぶ時間を少しでも多く確保したい人にとっては便利な移動手段だ。

海藻とり
海藻とり写真:ロイター/アフロ

イニシュモアの主な産業はジャガイモなどの農業と漁業、そして、観光業で成り立っている。周囲約40キロの島は石灰石の岩盤でできていて、古くから島民たちは岩だらけの土地の上に海からとってきた海藻を薄く肥料にして敷き、作物が飛ばされないように周囲を石垣で囲ってきた。だから、確かに木はあまり見当たらない。

島内の移動はどうする?

ポニー・ツアーもある
ポニー・ツアーもある写真:ロイター/アフロ

問題は移動手段だ。イニシュモアのフェリー埠頭からミニバスに乗って島内を周遊するサービスもあるが、やっぱりここは徒歩か自転車を選びたいところだ。島にはレンタサイクルがある。予約しておいた自転車が滞在先のB&Bに午前9時にデリバーされてくるとする。その後、石垣の間を縫うように走る悪路にもめげずペダルを漕いで、憧れのドン・エンガスから大西洋の荒波を覗き込み、ランチタイムを挟んでもまだまだ時間はある。何しろ、アイルランドの6月の日没時間は午後10時前。港の近くにあるキルロナン村にはコンビニやカフェ、そして、アラン島の名物といえばこれ、アランセーターを売る店がある。イギリス海峡南部のチャネル諸島にあるガンジー島で生まれたフィッシャーマンズセーターに、アラン諸島独特の編み方を融合させたアランセーターは、漁に出かける夫の無事を祈って妻たちが編んだのが始まりだとか。旅の思い出に一着購入してB&Bに向かえば、夕食までに自転車漕ぎで疲れ果てた足と腰を休める余裕は充分にある。

宿泊はどうする?

宿泊先はできれば島に向かう前、ゴールウェイのツーリスト・インフォメーションで予約をとっておこう。島には観光業が主産業だけあって魅力的なホテルやB&Bが数多くある。例えばハイシーズンの6月の場合、1泊だけなら選択肢は多いが、2泊となると港近辺から離れた場所にある宿まで連れて行かれる可能性があるのでご注意を。これは遠い昔、1990年代の個人的な体験談だが、港に着いた観光客を何人かまとめて宿まで送り届ける送迎タクシーの中に一人取り残され、本当に周囲に何もない、まるでパードリックの家みたいなB&Bの前で降ろされたことを思い出す。それと、日焼け。6月のアラン島で何の対策も施さず直射日光を浴びながら1日中自転車を漕ぐのは危険だ。勿論、歩きも。

『イニシェリン島の精霊』
『イニシェリン島の精霊』

とまあ、ロケ地ガイドから観光案内まで、実体験を交えつつお伝えして来た。確かにイニシュモアは映画で観る以上に過酷な自然により形成された最果ての島だ。しかし、だからこそ、訪れる価値がある場所でもある。1923年のアイルランドを舞台にした『イニシェリン島の精霊』の撮影が、当時の風景をほぼ残したまま可能だったことを考えると、島の存在そのものがまさに奇跡と呼べるからだ。

『イニシェリン島の精霊』

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

TOHOシネマズ シャンテ他全国公開中

(C) 2022 20th Century Studios. All Rights Reserved.

映画ライター/コメンテーター

アパレル業界から映画ライターに転身。1987年、オードリー・ヘプバーンにインタビューする機会に恵まれる。著書に「オードリーに学ぶおしゃれ練習帳」(近代映画社・刊)ほか。また、監修として「オードリー・ヘプバーンという生き方」「オードリー・ヘプバーン永遠の言葉120」(共に宝島社・刊)。映画.com、文春オンライン、CINEMORE、MOVIE WALKER PRESS、劇場用パンフレット等にレビューを執筆、Safari オンラインにファッション・コラムを執筆。

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