「死の泰麺鉄道」戦争の真実と和解(2)
1989年8月15日、日本の終戦記念日に英字紙ジャパン・タイムズにタイのカンチャナブリ捕虜収容所で働いていたという永瀬隆さん(2011年6月に死去)の記事が出た。永瀬さんは元捕虜エリック・ロマックスさんと同様に実在の人物である。
カンチャナブリで拷問に立ち会うなど過酷な体験をした永瀬さんもまた戦後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しめられていた。ロマックスさんは自分の心の中に閉じこもった。永瀬さんは贖罪のためカンチャナブリに巡礼の旅を繰り返した。
永瀬さんも先の大戦で愛国心に突き動かされて、戦場に赴いた日本人の1人だった。
『The Railway Man(邦題:レイルウェイ 運命の旅路)』の主役はロマックスさんなので、どうしても元戦争捕虜(POW)の視点を中心にストーリーが描かれている。
そこで生前に永瀬さんから4度にわたってインタビューしたことがある上智大学外国語学部の根本敬教授(ビルマ近現代史)にお話をおうかがいした。
1918年に岡山県で生まれた永瀬さんは仏教徒の両親の猛反対を押し切ってプロテスタントの岡山内山下教会で洗礼を受け、英語を学ぶため東京・青山学院専門部を卒業した。
大学でマルクス主義と出会い、キリスト教とマルクス主義を結びつけようとしたが、結局、ニヒリズム(虚無主義)に陥る。
41年12月5日、真珠湾攻撃のわずか4日前、永瀬さんは徴兵検査を受けたが、身長が低くて小柄なため、「第三乙種」だった。
身体が頑強な「甲種」ではなく、「乙種」の三番目の「第三乙種」では徴兵されない。永瀬さんは愛国心に駆られて、陸軍と海軍の通訳に志願して、陸軍に採用される。
42年1月、ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に出征、インドネシア、シンガポール、タイ・バンコクを経て、43年9月、永瀬さんは運命を大きく変えることになるカンチャナブリ憲兵分隊に配属される。
泰緬鉄道の建設は最終段階を迎えていた。日本軍はゲリラによる泰緬鉄道の破壊工作を極度に恐れていた。永瀬さんには単なる通訳としての役割だけでなく、英語力を活かして捕虜収容所に溶け込み、捕虜から情報を収集する任務が与えられた。
翌10月、問題の事件が起きる。収容所から手作りの通信機が入った缶と泰麺鉄道の地図が発見された。
容疑をかけられた捕虜数人が集められ、頑強な憲兵隊に木刀で殴りつけられる。「やったのは私だ」と名乗りでたのが通信兵のロマックスさんだ。
通信機は送信できす、ロマックスさんら捕虜は英BBC放送が伝える戦況を聞いていた。地図は鉄道オタクのロマックスさんが書き留めたものだった。永瀬さんはロマックスさんの拷問に通訳として立ち会った。
ロマックスさんは「通信機は受信機で送信機ではない」「地図を作ったのは鉄道が好きだから」と説明するが、執拗な憲兵隊は納得しない。拷問はエスカレートする。
「ウォーターボーディング」と呼ばれる水責めの拷問が行われた。仰向けに寝かされたロマックスさんの口に布が置かれ、水が注ぎ込まれる。溺れ死ぬ感覚を何度も味合わせることで自白を迫るのだ。
「ロマックスさんは『マザー、マザー』と叫んだそうです。永瀬さんは恐怖のあまり気を失ってしまいます。憲兵隊から永瀬さんは『根性なし』と叱責されます」と根本敬・上智大教授は証言する。
ロマックスさんは軍法会議にかけられることになり、バンコクに送られた。その時、小柄な永瀬さんが近づいてきて、「しっかりするんだ」と励ましの言葉をかけた。
永瀬さんはタイで終戦を迎える。通訳だった永瀬さんは憲兵隊のリストから外され、BC級戦犯としての追及を免れた。永瀬さんは捕虜たちの通訳として、泰緬鉄道建設で犠牲になった連合軍捕虜の遺体捜索を手伝うことになる。
そこで永瀬さんは無言の捕虜たちが死してなお、旧日本軍に抱き続ける憎しみの深さに衝撃を受ける。
遺体にはそれぞれ識別できるように名前などが書き込まれたメモが隠されていた。埋められた遺体の数も記されていた。
「こういうやり方で、ここまで日本軍に対する憎しみを表現したのか」「自分たちの仲間がどこで命を落としたのかをしっかり記録に残すことによって、日本軍が行った負の行為を覚えているんだぞ」と迫られているようで永瀬さんはショックを受けた。
連合軍捕虜の犠牲者は下一桁まで記録されている。しかし、東南アジアから泰緬鉄道建設に駆り出された労務者の犠牲者は正確にはわからない。
46年、復員して千葉県立佐原女子高校の英語教師になった永瀬さんは夜、夢の中に拷問や捕虜の遺体掘り起こしに立ち会った場面が蘇ってきて、精神的な病に陥ってしまう。
(つづく)