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いろいろ早かった!マイティ井上はいかに先駆者だったのか?現代のプロレスに及ぼした影響を考える

清野茂樹実況アナウンサー
国際プロレスで活躍したマイティ井上(写真右から二番目:東京スポーツ/アフロ)

元プロレスラーのマイティ井上が今月27日、75歳で死去した。1967年に国際プロレスでデビューして全日本プロレス、プロレスリング・ノアで活躍した姿を知る世代は50代以上だと思われる。では、「マイティ井上とはどんなレスラーだったのか?」と聞かれたら、筆者は「さまざまな面で先駆者だった」と答える。昭和の名レスラーの功績について4つのポイントで紹介したい。

25歳でエースになった

まず、マイティ井上の実績について挙げたいのが、国際プロレスのエースの称号であるIWA世界王座を日本人最年少の25歳で手に入れたことだ。今で例えるなら、オカダ・カズチカのようなものだろうか。保持期間はわずか半年間ではあったものの、AWA世界王者バーン・ガニアとのダブル王座戦も経験している。王座陥落後はアニマル浜口とのコンビでタッグを中心に活躍、さらに全日本プロレスではNWAインターナショナルジュニアヘビー級王者に輝いており、シングル、タッグ、そしてジュニアの3つの分野で頂点を極めたのは見事という他ない。

海外技術の輸入

井上の代名詞とも呼べる得意技は、サマーソルト・ドロップ(別名はサンセット・フリップ)である。立った状態から前転して背中から自らの背中を仰向けの相手に落とす技で、初代タイガーマスクや棚橋弘至も使い手だが、日本人で最初に披露したのはマイティ井上だ。フライング・タックルやオースイ・スープレックスも同様で、欧州やカナダ遠征で覚えた技を積極的に持ち込んだ。まだ海外情報を入手するのが困難だった時代、井上の試合によって、新しいレスリング技術を知った関係者やファンは多かったのではないか。

派手なコスチュームの先駆け

先駆者という面を考えれば、コスチュームもそうだ。今でこそ、レスラーが派手なコスチュームを身に着けるのは普通だが、黒や赤など単色タイツが主流だった昭和の時代にあって、井上は花柄のタイツを穿いていたのだ。また、1998年に現役を引退後はレフェリーに転向、さらに2000年に三沢光晴らとともにプロレスリング・ノアに移籍してからは、テレビの解説者としても活躍した。どんな役割でもこなせる器用さはリング上とまったく同じで、団体を表と裏の両方で支えた面も強調しておきたい。

入場テーマ曲の先駆者

そして、もうひとつが入場テーマ曲についての貢献だ。レスラーの入場に音楽をかける演出は1974年に東京12チャンネル(現テレビ東京)で中継された国際プロレスを嚆矢とするわけだが、ドイツではずいぶん前から使われており、井上は遠征に向かう際に日本からレコードを持ち込んだという。こうしたドイツでの経験を帰国後、テレビ局に伝えたことがテーマ曲の始まりに繋がっており、仮に井上の進言がなければ、日本における入場テーマ曲の歴史はもう少し遅くなっていたかもしれない。


以上が筆者が考えるマイティ井上の功績だ。饒舌な井上は引退後も積極的に専門誌の取材に応じ、トークイベントにも数多く出演した。強い関西弁の語り口と、距離感を感じさせない人柄に魅了された人は多かったと思う。パイオニア精神を持った国際プロレスの語り部がまた一人いなくなってしまったことが寂しくてならない。

※文中敬称略

実況アナウンサー

実況アナウンサー。1973年神戸市生まれ。プロレス、総合格闘技、大相撲などで活躍。2015年にはアナウンス史上初めて、新日本プロレス、WWE、UFCの世界3大メジャー団体の実況を制覇。また、ラジオ日本で放送中のレギュラー番組「真夜中のハーリー&レイス」では、アントニオ猪木を筆頭に600人以上にインタビューしている。「コブラツイストに愛をこめて」「1000のプロレスレコードを持つ男」「もえプロ♡」シリーズなどプロレスに関する著作も多い。2018年には早稲田大学大学院でジャーナリズム修士号を取得。

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