日本人に「おいしい」と言わせた台湾産「日本米」 背景にはコロナ禍の影響と農家の努力
コロナが露わにした在台者の食問題
「前に『台湾産のお米を食べている』と言っていましたよね? おすすめの銘柄を教えてもらえませんか」
そう在台の友人に尋ねられたのは、コロナ禍で帰国できなくなってしばらく経った頃だった。友人はそれまで日本への帰国のたびにコメを買い込んで台湾まで運んで食べていたという。コロナ禍で帰国が叶わなくなるとその道が絶たれ、困り果てていた。
即座に友人に、わが家で購入しているコメとその購入方法を伝えた。大いに身に覚えがあるのだ。筆者も台湾に来てしばらく、日本からコメを運んでいた。滞在が長期化するにつれ、台湾で自分が納得できる銘柄を探そう、と諦めにも似た気持ちでコメを探し、比較的早く「これなら」というコメに巡り合った。
とはいえ、台湾は海外の中でも日本食や食材の選択肢は多いほうだ。日系のチェーン店が各種あり、デパートに行けば割高だがコメはもちろん調味料や各種食材が手に入る。台湾系の大手スーパーにも、日本の輸入商品が並ぶ。納豆や味噌、牛乳まで日本製が手に入るのだから、なんとも有り難い限りである。
他の友人も似た経験をしているのだろうか——そんな疑問をぶつけてみたところ、多くが「コロナになってから台湾で買うようになった」と答えるではないか。中には「台湾のお米は粘り気が足りない」と頑なに日本米を死守していた友人も「実は……」と台湾で買い始めたという。
コロナの影響は多々あるが、移動を前提にしていた食生活を見直した、というのは、統計にはないけれども、案外多いかもしれない。
台湾における主食の変化
台湾グルメとして街中で目にする食事のうち、ガイドブックなどでよく取り上げられるのは、小籠包に餃子、蛋餅など、台湾では「麺食」と呼ばれる小麦粉を使った粉物料理だ。外食ではどちらかというと麺食が多いが、家庭料理での主食はコメ、という人も少なくない。
台湾の主食はコメなのか小麦なのか断言しづらいのだが、その原因の一つには、台湾の主食が過去に2回、大きく変わるよう迫られたことにある。
最初は、1895年に始まった日本統治である。50年という統治の間にコメの生産改良が進み、味が向上したことで徐々に主食は米食へと取って代わった。
2度目は1949年以降の、国民党政府の登場である。蒋介石について台湾へと渡った人数は約120万人。数の多さもさることながら、そのうち中国北方の出身が多かったことで、一気に麺食へのニーズが高まった。さらに政府はコメを輸出品目と定め、台湾内での消費を抑える政策を取り、同時にアメリカからの安価かつ大量の小麦を輸入した。麺食を定着させるべく、メディアが活用され、調理教室が開かれるなどして、台湾での麺食文化が定着していった。ちなみに、牛肉麺が広がったのもこうした主食の変化が背景にある。
そうした中、1970年代から米食は急激に減少。日本も戦後、食の西洋化が進み、小麦粉の使用が増え、減反政策などからコメの消費が減少したが、台湾のほうが西洋化の速度が早いという研究データもある。
1人1年あたりの供給食料のうち、コメと小麦を比較してみよう。
コメ 小麦
2012 45.64 35.73
2021 43.03 38.74
単位:kg
出典:行政院農業委員会統計室「110年農業統計年報」
小麦の消費が上がる一方、コメは下がっている。実際、コメの生産現場はどうなっているのか。気になっていたところに、あるコメに出会った。
台湾農業の今を垣間見る
今年6月上旬。台北の料亭で友人たちと食事をした。会場となった会席「圓雙」は一見さんお断り、1日1組限定で、その日はおでんを中心としたコース料理をいただいた。3年ほど一時帰国できずにいた筆者には染み渡る料理を堪能していたら、同店を営む吉田直嗣さんが言った。「こちらのほうでは、台湾産のお米を使っているんですよ」。きっかけは客の紹介という。同席した友人は全員日本人で、「え、台湾なんですか。おいしいですね」と口を揃えた。
その味の秘密を知りたくなった筆者は、お客さんの連絡先を教わり、7月に収穫直後の新米を入手。炊いてみところ、過去に食べた台湾産のコメの中でもピカイチ。ちなみに台湾は二毛作。コメは7月と12月に収穫される。
9月末、台北市内で行われた「スマート農業展示会」の会場で、くだんのコメをつくる陳士賢さんにお目にかかった。
展示会には、農業用ドローン、自然分解するマルチシート、元は介護用の介助ロボットなど、台湾内外から各社が出展。陳さんは、農作業を軽減する目的でGPSをはじめ積極的に機械化を行っている。
出展者には、陳さんの友人たちも複数参加していた。ハチミツ農家に大豆農家、加工品の店もある。陳さんは、国際空港を抱える桃園市で、「桃園市青年農民生産合作社」というグループを作って活動している。若手生産者の集まりで、繁忙期にはお互いの農作業を手伝う自助グループだ。陳さんは、グループの取りまとめを行うリーダー的存在だ。
陳さんは農家の3代目。子どもの頃は自分が農家を継ぐ気はなかったという。ところが、大学院を修了したのち、ワーホリを利用して行ったオーストラリアで、台湾農業との違いを目の当たりにした。「これなら自分もやれそうだと思いました」
日本では農業従事者の高齢化が問題になっているが、台湾でも同様の課題を抱えている。陳さんは「楽をしたいだけですよ」と笑うが、実のところ、スマート農業展示会に参加したのも、機械化が農作業による負担を大いに軽減すると知っているからだ。軽減できれば、時間を短縮し、家族との時間を増やすことができる。
台湾で育てる「いのちの壱」
台湾観光が再開した直後の11月、国際空港のある桃園の上空に、飛行機が行き来する中、陳さんの田んぼと工場を見学させてもらった。
工場には、クボタ、ヤンマー、イセキといった日本製の耕作機械が並ぶ。また、モミを取り除く大型の設備も日本の農家にならったという。
今年の秋、田んぼのある台湾北部は長雨続きで、生育状況は思わしくない。お天気相手は世界中どこも同じだが、台湾はとりわけ台風襲来も多く、大陸からの季節風は台北よりも桃園のほうがずっと強く吹く。加えて、ネズミやスズメといった動物による被害もあるし、田んぼの角にある街灯のあかりも生育に悪影響を与える。そういった苦労を経たのに、あのクオリティの高さなのか、と驚いた。
筆者たちが食べたコメは、コシヒカリの突然変異種として生まれた品種で、「いのちの壱」という。陳さんは、日本から直に種もみを買い、自分たちで育てている。
それまでは「桃園3号」という台湾の品種を育てていた。だが、2018年、岐阜県高山市で行われた「第20回米・食味分析鑑定コンクール:国際大会」に参加した際に、陳さんは初めていのちの壱を口にして衝撃を受けた。
「おいしい、というのはもちろんですが、台湾で自分が作っていたコメよりも粒がずっと大きかったんです。台湾でも作ってみようと思って、すぐに買い付けました」
コンクールには台湾で作ったコメを出品してみたが、結果は散々だった。「全然日本のコメには届かないんだと思い知らされました」と苦笑する。ただ、審査データを数値で見たことで、日本と何が違うのかを考えるヒントになったようだ。
在台の長い友人が、いつだったか「やっぱり日本の味と比べると、台湾は……と思っていたけれど、最近はかなりおいしくなっている」と言っていたのを思い出した。日々、味や技術の向上を目指す人がいる。それを知ることができ、改めて食べて応援しよう、と思ったのだった。
目指すは日本米の味
いのちの壱を育てている田んぼへ向かった。天気はあいにくだったが、まもなく収穫だという田んぼは、黄金色に色づいていた。
「この田んぼで、だいたい2,000キロ収穫できます。周囲に竹があるのは、風避けです。中央部分の少し凹んで緑になっているのは、ネズミに食べられたあとですね。スズメは、他の品種よりもいのちの壱の田んぼのコメから先に食べるんですよ。彼らも味がわかっているんでしょうね」
日本では約150日で収穫するが、陳さんの田んぼで収穫までにかかる日数は約100日。いのちの壱を作るようになって今年で3年になるが、それでも「まだまだ改善の余地があります」と話す。
台湾では、コメを収穫したあと、顧客の求めに応じて必要量を都度、精米し、袋詰めして届ける。農家が収穫したコメはJAで引き取って値付けされ、精米・包装して小売店などに届ける、日本の仕組みとは大きく異なる。
目下、陳さんの抱えている課題は、精米後のぬかの扱いだ。日本では、ぬかはぬかで包装して販売し、ぬか床など各家庭で活用するが、台湾にはぬかを活用するカルチャーがない。スーパーや小売店にぬかが並ばない理由が、ようやくわかった。
蓬莱米から台湾産日本米へ。
もともと台湾で生産されていたコメは粒の長いインディカ米だった。それが、日本統治時代の品種改良でジャポニカ米が作られるようになり、やがて日本へと移出されるまでになった。「蓬莱米」と呼ばれて親しまれている。その他にも、台湾と日本の品種を掛け合わせた「香米」、あるいは越光米、壽司米と呼ばれるコメもある。
陳さんが選んだいのちの壱は、そういった激戦区で戦うために選ばれたコメだ。台湾で品種改良することなく、直接タネから育てられるようになったのは、農業交流と技術革新の賜物だろう。
日本の農業も台湾の農業も、抱えている課題には共通点が多い。どちらも応援したいが、普段の食卓に大事なのは無理なく継続できること。台湾でも「地産地消」が言われるようになった。これからも台湾で暮らす筆者にとって、フードマイルを減らし、味の向上に取り組むとわかった台湾産日本米は、食卓に欠かせぬ品になりそうだ。