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豊臣秀吉のお気に入りとなり、重用された3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 企業で成果主義が導入されたとはいえ、上司からすれば、気に入った人を部下にしたいだろう。それは豊臣秀吉も同じで、気に入った人を重用したので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎宇喜多秀家(1573~1655)

 宇喜多秀家は、備前などを支配する直家の子として誕生した。当初、直家は織田信長と対立していたが、やがてその配下になった。信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉が政権の主導権を握ると、秀家との関係を深めた。養女の豪を秀家の妻にしたのも一つだろう。

 以後、秀家は異例な大出世を遂げ、中納言、そして五大老の一人になった。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦では、西軍の主力として出陣したが敗北。晩年は八丈島に流され、故郷に帰りたいという思いを抱きつつ、非業の死を遂げたのである。

◎石田三成(1560~1600)

 秀吉が石田三成と会ったのは、近江のある寺院だったと伝わる。三成のお茶の出し方(三献茶の逸話)を気に入った秀吉は、家臣として召し抱えることを決めたという。以降、三成は秀吉のもとで、主に検地などを主導して行い、大いに貢献したのである。

 その後、五奉行の一人になった三成は、豊臣政権を存続させるため、徳川家康に対して兵を挙げた(関ヶ原合戦)。しかし、結果は三成が率いる西軍は無残な敗北を喫し、戦場を離脱した。戦後、三成は逃亡中に捕縛されると、斬首されたのである。

◎大谷吉継(1559~1600)

 大谷吉継の前半生には、不明な点が多い。秀吉に小姓として仕えてから、頭角をあらわしたといわれている。石田三成と同じく、吏僚として検地奉行を任されるなどし、秀吉に貢献した。文禄の役でも、三成とともに船奉行を務め、明との和睦交渉も担当した。

 秀吉の死後、吉継は徳川家康に急接近したが、三成の要請に応じて西軍に属し、家康に対して挙兵した(関ヶ原合戦)。家康の専横を許せなかったのである。合戦がはじまると、吉継は小早川秀秋と一戦交えたが敗北。吉継は自害したと伝わっている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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