【戦国こぼれ話】大坂の陣の引き金となった方広寺鐘銘事件。それは徳川家康の陰謀だったのか
方広寺(京都市東山区)の釣り鐘の鋳造に関わった鋳物製造業「五位堂工業」(奈良県香芝市)が、クラウドファンディングに挑戦しているとの報道があった。大坂の陣の引き金となった方広寺鐘銘事件とは、どんな事件だったのだろうか。
■方広寺鐘銘事件とは
豊臣家と徳川家との関係が完全に破綻し、大坂の陣に至った原因の一つとして、方広寺鐘銘事件をあげることができる。同事件では鐘銘に「国家安康」の文字があり、それが「家康」の名前を2つに分けた不吉なものであるとされた。家康が激怒したことは、いうまでもない。
慶長19年(1614)8月3日、京都の方広寺で大仏開眼供養会が行われることになった。すると、家康の懐刀で天台宗僧侶の南光坊天海は、その運営方法に注文をつけた。供養会において、天海は天台宗の僧侶を上座の左班にするよう、豊臣方へ申し入れたのである。
前回の供養会で真言宗を左班にし、高野山の木食応其の主張を受け入れた。しかし、今回は供養導師が天台宗の妙法院なので、天台宗の僧侶を左班にするようにというのが天海の言い分だ。問題は、天台宗と真言宗のいずれが上座に座るかということだった。
また、仁和寺門跡が供養会に出席することについて、天海は強く非難した。そして、天台宗の僧侶が左班でなければ、出仕しないとまで言ったのである。面倒なことに、家康も堂供養と大仏の開眼供養を同時に実施するのか尋ねた。問題はさらに複雑化していった。
■対処した片桐且元
この問題に対処したのは、片桐且元である。7月18日、且元は家康のいる駿府城に赴き、供養の日程を午前と午後で実施するという策を提示し、家康の要望を叶えようとした。しかし、天海の主張である、仁和寺門跡の排除は拒否したのである。
ところが、これで事態は収拾しなかった。今度は、臨済宗の僧侶・金地院崇伝の主張が問題となった。家康の信頼が厚い崇伝は、開眼供養と堂供養を2日に分けるべきであると申し入れた。これは、崇伝の考えというよりも、実質的に家康の意向を受けたものであったといえる。
7月21日、家康は大仏鐘銘に「関東に不吉の語」があり、しかも上棟の日が吉日でないと立腹したことを豊臣方に伝えた(『駿府記』)。この時点において、まだ立腹の具体的な内容は伝わっていない。且元は、8月3日に開眼供養と堂供養を行いたいと従来の主張を繰り返すだけだった。
こうなると、話は平行線をたどるだけだった。
■変わらなかった家康の主張
家康の主張が変わることなく、再び大仏開眼供養と堂供養を別の日に行うように迫った(『駿府記』)。崇伝は家康の意向を受け、上棟、大仏開眼供養、堂供養を延期し、改めて吉日を選んで実施するよう、且元に書状を送った(『本光国師日記』)。ここまで来ると、執念深さすら感じる。
そうしているうちに、方広寺鐘銘事件が起こったのである。
肝心の方広寺の鐘銘は、東福寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)が撰したのであるが、そこに「国家安康」の文字のあることが発覚した。これは、「家康」の2文字が分かれていたため、家康は強い不快感を示した。ただ、これを問題視したのは林羅山であって、ほかの五山僧はさほど問題とは思わなかったようだ。
むろん、それだけではなかった。方広寺の鐘銘には、「君臣豊楽」の文字が刻まれていた。この言葉は、豊臣家が家臣とともに繁栄していくことを意味すると考えられた。家康の怒りは、さらに増幅したといえよう。この一連の流れが方広寺鐘銘事件の発端だったのである。
■文英清韓の失策
少なくとも「国家安康」の解釈には、大きな問題があった。「家康」の文字を分けて呪うというのは正しい解釈でなく、むしろ国家の末永い安泰を願ったものと解するのが自然である。
とはいえ、鐘銘を撰した文英清韓は、迂闊の謗りを免れないであろう。諱(実名)の分割を避けるのは、もっとも基本的なことだからだ。もっとも豊臣方も適切な対応をすることができず、窮地に追い込まれた。誠に不幸であったといえるかもしれない。
方広寺鐘銘事件のきっかけは「国家安康」の4文字などの解釈だけでなく、それ以前の供養会などの実施方法に遡って問題があったことがわかる。それに深く関与したのが、天海と崇伝だったのである。家康は2人の知識人の頭脳をフル活用し、豊臣家を窮地に追い込んだのだ。