カギはジョンズ・ホプキンズ大学にあった、奇病「バク」と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本でも八丈小島ではバクと呼ばれている奇病が蔓延しており、多くの島民を苦しめてきました。
この記事ではバクとの戦いの軌跡について紹介していきます。
アメリカでの発見
1948年、佐々はロックフェラー財団の留学生としてアメリカへ向かいました。
彼が戦後初の留学生に選ばれた背景には、帝国海軍での熱帯病研究と英会話能力の高さがあったのです。
西海岸のサンフランシスコから入国し、留学先のジョンズ・ホプキンズ大学のある東海岸のボルチモアまで長距離バスを乗り継いで移動しました。
公衆衛生学の名門として名を馳せているジョンズ・ホプキンズ大学では修士コースにて8か月間学び、アメリカ海軍出身の同級生たちとも交流を深めました。
彼らは日本人である佐々に興味を持ち、親切にも大学までの送迎を提供してくれたのです。
佐々はその知見の高さから、マラリア講座の講師としてアメリカ軍医の卵たちに予防方法や蚊の判別を教えることになりました。
しかし、日本帰国後にマラリア研究を続けたいと考えていた佐々は、アメリカが莫大な予算を投じてマラリア研究を行っている現状に触れ、戦後の日本がこの分野で太刀打ちできるかどうかに疑念を抱くようになったのです。
一方で、アメリカにおいてフィラリア研究がそこまで重要視されていないことを知り、自身の研究対象をフィラリアに絞る決意を固めました。
ジョンズ・ホプキンズ大学の膨大な図書館で、佐々はフィラリアに関する文献を読み漁り、特に日本では得られない中南米の情報に価値を見出したのです。
また、大学にはリンパ系フィラリア虫やミクロフィラリアの標本が所蔵されており、佐々はそれらを顕微鏡で観察し、識別能力を高めていきました。
ある日、アメリカの薬学誌で「DEC」というフィラリアに有効な化合物質に関する記事を発見します。
DEC(クエン酸ジエチルカルバマジン)は、日本ではまだ知られていない薬品だったが、動物実験でミクロフィラリアを急激に減少させる効果が確認されていたのです。
この発見により、佐々は八丈小島のバク病を治せるかもしれないと期待し、DECの研究を始めました。
1949年8月、佐々はアメリカ留学を終え、日本に帰国したものの、この経験は彼の研究に大きな影響を与えることとなったのです。
新薬の開発
日本へ帰国した佐々は、伝研へ戻り、同僚の加納にフィラリア治療薬DECのことを伝えると、驚くことに東京大学薬学科で既に合成されたばかりの薬であることが判明しました。
菅沢重彦教授が回虫駆除のために開発したこの薬は、田辺製薬と共同で実用化の準備が進められていたのです。
佐々はDECを使用したいと申し出たが、菅沢は回虫駆除が本来の目的であり、まだ臨床試験も行われていない段階であったため、難色を示しました。
しかし、佐々の熱意に心を動かされ、菅沢はDECの提供を許可します。
12月には飲み易い錠剤としてスパトニン1000錠が佐々に譲渡されました。
この頃、アメリカでもDECの人間への投与例が報告されていたが、それは1名の成功例に過ぎず、効果の保証はありませんでした。
佐々は一刻も早く八丈小島で治験を行いたかったものの、冬の荒天のため春まで待つことにしたのです。
スパトニンがフィラリア治療に効果を発揮するかどうかは、これからの実験にかかっていました。