平野歩夢、戸塚優斗、鬼塚雅ら北京五輪で多くのメダル獲得が期待されるスノーボード競技。その源流をたどる
1998年の長野五輪から正式種目として採用されたスノーボード。前々回の記事「東京五輪を沸かせたスケートボードとサーフィン、スノーボードとの深い関係性とは」で綴っているように、サーフィンとスケートボードをバックグラウンドに持ちながらも、五輪に採用される順番は大きく異なってしまったが、来年2月に開催される北京五輪で7回目を数える。
東京五輪スケートボード・パークに出場し“二刀流”ライダーとして大きな注目を集めた、ソチ、平昌五輪ハーフパイプで2大会連続銀メダルを獲得している平野歩夢。その平野が不在だった平昌以降のハーフパイプ種目では、同五輪で決勝にコマを進めるも激しい転倒により途中欠場となった戸塚優斗が急成長を遂げ、現在、世界王者として君臨している。また、2020年のX GAMESアスペン大会ビッグエアで優勝し、2021年の同大会2位、FIS世界選手権ビッグエアで銅メダルを獲得した鬼塚雅など、スケートボードやサーフィンに続いて多くのメダル獲得が期待されている。
体育文化が根強い日本では、“横乗り”と呼ばれるボードスポーツに対する理解は乏しいわけだが、平野らスノーボーダーたちの活躍により少しずつこれらの魅力が浸透しはじめていた。そうした土壌があったうえで、スノーボードのルーツであるサーフィンやスケートボードの日本人ライダーたちが大きな脚光を浴びた。
そして迎える北京五輪。異例の半年というスパンにより、ボードスポーツに対する興味・関心が高いままバトンを受ける格好だ。そこで、より深くスノーボード競技を楽しむためにも、日本では知られざるその源流をたどっていきたい。
アメリカ東西のライバル関係が生み出したスノーボード競技の原型
まずはスノーボード黎明期を支え、業界を代表するブランドを創り上げたキーパーソンを紹介したい。2019年11月に他界してしまったBURTONブランドの生みの親、ジェイク・バートン氏だ。
14歳の頃に子供用の遊具だったSNURFER(スナーファー: SNOWとSURFERの複合語)に影響を受け、1977年に米バーモント州の倉庫でローンチ。1982年、SNURFERの契約ライダーだったポール・グレイブス氏のサポートを得て、現在のUS OPENの前身である「NATIONAL SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPS」をバーモント州スノーバレーで開催した。
それ以前は、1979年に行われたSNURFERによるダウンヒルコンテストがあったが、1981年にコロラド州スキークーパーで開催された大会が世界初のスノーボード競技とされている。この大会で、前回の記事「二刀流・平野歩夢が歩み続ける道なき道の起点。スケートボードがスノーボードにもたらした化学反応を知る」に登場するトム・シムス氏が2位、バートン氏が3位になるなど、若かりし頃のファウンダーたちはしのぎを削っていたわけだ。このような流れを踏襲し、BURTON主催のNATIONAL SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPSは、スラロームとダウンヒルのみの大会だった。
一方でカリフォルニア州で創業したシムス氏率いるSIMSは、NATIONAL SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPSが誕生した翌年の1983年、初のスノーボード世界選手権「WORLD SNOWBOARDING CHAMPIONSHIPS」を開催。同州レイク・タホ近郊に位置するソーダ・スプリングスで行われた同大会は、スラロームとダウンヒルに加えて、世界初となるハーフパイプの大会を導入したのだ。
その背景にはSIMS所属ライダーであり、フリースタイルの生みの親とされているテリー・キッドウェルの存在があった。レース競技の総称であるアルペン・スノーボーディングが主流だったシーンに風穴を開けたのは、まさしくスケートボードに精通していたテリーのライディングスタイルの賜物にほかならない。
テリーは14歳のときにカリフォルニア州タホに移り住んだことを契機にスケートボードに熱中し、特にバート(ランプと呼ばれる半円状のコース)にのめり込んだ。バーチカル(飛び出し口が垂直であることからスノーボードのハーフパイプも含めてこう総称)でのライディングスタイルに魅了され、1970年代後半に差しかかった頃、スノーボードと出会うことに。この時代のスノーリゾートはスノーボードの滑走が禁止されていたため、バックカントリー(ゲレンデのように整備されていない雪山)でパウダーライディングに明け暮れていた。
そして1979年、タホのローカルスノーボーダーであるボブ・クラインをはじめとする仲間たちとともにテリーは、自然地形のクォーターパイプを発見。その地形を利用して、これまでスケートボードで培ってきたバーチカルのスキルを雪上でトライする毎日を過ごした。エアやスピン、ハンドプラントといった数々のトリックをオンスノーに置き換える日々。スノーボードでバーチカルを滑走するという発想は、この地で誕生したのだ。このロケーションを彼らは、“タホ・シティ・パイプ”と名づけた。
その後、シムス氏がタホ・シティ・パイプを訪れた際、テリーは巨大なバックサイドエアを放った。それを見たシムス氏は未来のスノーボードを直感し、先に述べたとおり世界選手権にハーフパイプ種目を導入する運びとなったわけだ。
サーフィンをもとに生み出されたSNURFERからインスピレーションを得たバートン氏、少年時代からスケートボーダーだったシムス氏。異なる背景を持つ双方のイマジネーションには違いがあった。よって、BURTONはSIMSが主催する世界選手権をボイコット。レースに重きを置く東のBURTON、フリースタイルを重視する西のSIMSという対立構造が生まれた。
しかし面白いことに、実は両名ともアメリカ東海岸の出身。バートン氏はニューヨークで生まれ育ち、根っからのサーファーでもスケーターでもなかったものの、前述したようにSNURFERに魅せられ、大学卒業後には雪上でのサーフィンをビジネス化しようと目論んだ。
対するシムス氏はニュージャージー州で幼少期を過ごし、13歳の頃、木工製作の授業でスキーボードを発明。その後、ベトナム戦争の徴兵を免れるためにアメリカ西海岸へ移住することになった。
この時代の西海岸といえば、愛と平和を訴え、徴兵に反発した若者を中心にヒッピー文化が発祥した地。自由を求める動きが盛んであり、その一部がサーフィンやスケートボードだった。そうした背景も重なって、SIMSが表現するスノーボードはフリースタイルが重要なファクターとなったのだ。
このようにライディングスタイルを形作っていくうえで、彼ら創設者らの功績はもちろん大きいわけだが、やはりライダーたちがシーンを動かしていく。
先述のテリーは、その後数年に渡りハーフパイプの大会で敵なし状態。メソッド、スロッブエア、アーリーウープ、リーンエアなど、現在でも見ることができるベーシックトリックの原型は、まさにこの時代に築かれたものである。
さらに、1985年に世界初となるライダーの名を冠したプロモデルをSIMSよりリリース。このボードは、それまでのノーズ(前足側のボード先端)方向にしか進まないことが前提となっていたスノーボード(スノーサーフ)の概念を覆す代物だった。ラウンドテールを採用したことでフェイキー(スイッチスタンス: 通常のスタンスとは逆向き)ライディングを可能にしたのだ。
こうして、現在の主流であるフリースタイル・スノーボーディングは、彼らの飽くなき探究心から産声をあげた。そして、スノーボード界の神として知られる男もまた、当時はSIMSのライダーだった。
競うだけでなく“表現する”価値を築き上げたクレイグ・ケリー
その男とはクレイグ・ケリー、享年36歳。スノーボーダーであれば周知の事実だが、2003年1月20日、カナダ・ブリティッシュコロンビア州のレベルストークにて雪崩に巻き込まれてこの世を去った、伝説のスノーボーダーである。
1986年から4年連続で世界チャンピオンに輝き、3度の全米チャンピオン、そして、マウントベイカーで現在も開催されているバンクドスラローム(自然地形を活かして造られたバンクを滑るタイムレース)でも3回優勝を飾るなど、スノーボード競技における最初のスーパーヒーローが誕生した。
1966年4月1日、アメリカ・ワシントン州のマウントバーノンという小さな町で、クレイグは生まれ育った。シアトルから北へおよそ100kmという地の利を活かし、15歳だった1981年にスノーボードを始めると、マウントベイカーやスティーブンズパスという同州を代表する世界最高峰のリゾートでライディングする日々を過ごしていた。
17歳までレース活動を続けていたBMXで培ったバランス感覚が功を奏したのだろうか。瞬く間に高次元のライディングスキルを身につけていき、スノーボードを始めてたった5年で、先に述べた成績を残してスターダムにのし上がっていったのだ。
しかし、当時はコンテストがプロとしての主戦場だったにもかかわらず、賞金はたった数百ドル。シーズン中は車中泊や友人宅のソファで生活しているような時代だっただけに、スノーボードだけで生活していくという考えを真剣に受け止める者などいなかった。
そこでクレイグは、大会に参戦する傍らで新境地を開拓していくことになる。コンテストで活躍するだけでなく、彼は早い段階からフォトグラファーやビデオグラファーと行動をともにするようになり、雑誌の表紙やテレビコマーシャルに登場していたのだ。自身の価値をどのように活かせばスノーボードの発展に寄与できるのかについて深く考え、勝つための滑りだけでなく、スノーボードのクールさを表現する滑りの価値を提唱した。これが今日まで受け継がれている、競技性よりも表現力を重んじるプロスノーボーダーとしての生き方の礎となるわけだ。
そしてさらなる発展を望んだクレイグは、ひとつの決断を下すことになる。それは、SIMSからBURTONへの移籍だ。
クレイグとBURTONの産業革命
「クレイグを失ったことは、私にとって痛恨の極みだった。その後、すべてが変わった」
これはシムス氏の言葉なのだが、当時最高レベルのプロダクトを誇り、フリースタイルをメインとした人気ライダーが多く所属していたSIMSチームは、彼の離脱により混乱に陥った。SIMSの商標使用権を所有していたVISION STREET WEARが倒産したことにより、すでに世界チャンピオンだったクレイグが提示する条件で契約を結ぶことが難しくなってしまったからだ。
自身が主催する大会でクレイグの活躍を目の当たりにしていたバートン氏は、今後の活動に不安を抱いていた彼をサポートすることに決めた。しかし、VISIONとSIMSはこの契約に対して訴訟を起こし、その結果、クレイグはBURTONロゴが入ったプロダクトの使用禁止と、多額の裁判費用を強いられることになる。
そんな逆境ではあったものの、ロゴやグラフィックが何も描かれていないブラックボードに跨がり2度の世界制覇を成し遂げるなど、クレイグの勢いはとどまることを知らなかった。2年の時を経て1989年になると逆転勝訴し、BURTONからクレイグ初のプロモデル「MYSTERY AIR」が発売となり、即完売。ライダーが広告塔であるという価値観をスノーボード界に浸透させていくとともに、金銭的に恵まれていなかったライダー業の改善に努めた。
大会で勝つことだけでなく、雑誌や映像での露出に広告としての価値があるということをメーカーサイドに認めさせたのだ。それぞれでインセンティブ契約を結ぶことで、大会で勝つことだけが生業ではない、現在のプロスノーボーダーというフォーマットを築き上げたというわけである。こうしたクレイグによるアクションがあったからこそ國母和宏ら、いわゆるムービースターと呼ばれる今日のプロスノーボーダーたちが存在するのだから、この功績は計り知れない。東京五輪スケートボード・ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗が「コンテストよりもビデオパート」と言っているのだが、まさにその価値観である。
「クレイグに報奨金制度はマズかった……」。彼のスノーボード人生を収録した映画『LET IT RIDE』内でバートン氏はこのように笑うが、BURTONにとってクレイグの存在は、ライディングに長けた広告塔としてだけでなく、それ以上に価値があった。
プロスノーボーダーを目指してワシントン大学を中退したのだが、それまでは生物化学の学位を取得するべく勉強をするなど、とても聡明な人間だった。ボード設計やマテリアルなどすべてを理解していたからこそ、プロダクトに対して的確なフィードバックをもたらした。
これにより、BURTON製品は目覚ましく進化を遂げ、現在のトップブランドという地位に上り詰めることになる。クレイグなくしてBURTONは語れない。そういっても過言ではない。その証拠に、バーモント州に位置するBURTON本社に隣接する開発ラボは「CRAIG’S」と名づけられている。ここから同ブランドの最新テクノロジーが生み出されているのだから、今もなお、クレイグの魂はBURTON製品に生き続けているということだ。
このように、クレイグとバートン氏の出会いにより、スノーボード界に革命が起こった。プロスノーボーダーとしての道を模索していたクレイグ、そして、その想いに応えながら彼のフィードバックを活かして自由なライディングを可能にするプロダクトを開発し続けたバートン氏。90年代に入ると、クレイグは押しも押されもせぬスノーボード界の顔となり、一方でBURTONもトップブランドの地位を確固たるものとした。
こうしてプロダクトの品質が向上したことでライディングの進化が加速度的に促進され、ライダーたちは競技と並行するように撮影活動に没頭することで、滑走技術だけでなくライディングの“スタイル”に磨きをかけていた。トリック(技)の難易度やジャンプの大きさだけでは表現できない、“カッコよさ”や“個性”がもっとも重視されながらシーンは発展していくことになる。
こうしてスケートボードの文化価値を継承して成長していくスノーボードはISF(国際スノーボード連盟)が大会を運営・管理していたのだが、1998年に長野の地でハーフパイプ種目がオリンピックデビューを飾ったときは、なぜかFIS(国際スキー連盟)がスノーボード競技をハンドリングしていた。
こうした歴史的背景をIOC(国際オリンピック委員会)が理解していなかったことが最大の理由だが、解せないままスノーボード競技はオリンピックデビューを飾ったのである。
※ウェブマガジン「BACKSIDE」掲載の記事を、2022年の北京五輪の開幕に向け、最新の内容・情報に加筆修正した記事となります