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東京五輪を沸かせたスケートボードとサーフィン、スノーボードとのその深い関係性とは

野上大介スノーボードジャーナリスト・解説者/BACKSIDE編集長
平野歩夢の代名詞であるハイエアはスケートボードでも健在(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

東京五輪では新種目・スケートボードが大きな注目を集めた。男女4種目ある中で、堀米雄斗、西矢椛、四十住さくらの3名が金メダルを獲得したわけだが、それだけが理由ではない。勝つことに固執して競い合うのではなく、互いを称え合い自身のベストを表現する、いわゆる“横乗り”と称されるボードスポーツ特有の姿勢が、日本の体育文化に根づく価値観を覆したからである。

そしてもうひとり、スノーボードとの二刀流として東京五輪スケートボード・パークに出場した平野歩夢にも多くの関心が寄せられた。ソチ、平昌五輪とスノーボード・ハーフパイプで2大会連続銀メダルを獲得しており、2022年2月に迫っている北京五輪で悲願の金メダル獲得を目指す傍らでの挑戦だったのだから、なおさらだ。

歩夢はハーフパイプが正式種目に初採用された長野五輪と同年の1998年に生まれ、4歳の頃からスノーボードとスケートボードを始めているのだが、その指導者である父はサーファーだ。また、トリノ、バンクーバー五輪に出場した後、バックカントリーと呼ばれる手つかずの雪山を舞台に撮影した自身の滑りをまとめたビデオパートが世界一に輝くなど、日本スノーボード界を牽引する國母和宏の父もサーファーである。これらを踏まえると、脈々と受け継がれる“3S(Surf、Skate、Snow)”カルチャーの一端が見えてくる。

五十嵐カノアが銀、都筑有夢路が銅メダルを獲得し話題を集めたサーフィンも東京五輪から新競技として採用されたが、横乗りスポーツでもっとも歴史が長い。サーフィンを陸上で実現するためにスケートボードの前身であるローラーサーフィンが、雪上でマニューバーを描くためにスノーボードの原型であるスノーサーフィンがそれぞれ誕生。五輪に採用される順番は大きく異なってしまったが、東京五輪を契機にすべてのボードスポーツが日の目を見たわけだ。

オリンピック準決勝でフルローテーションを決めて大逆転した五十嵐カノア
オリンピック準決勝でフルローテーションを決めて大逆転した五十嵐カノア写真:ロイター/アフロ

コロナ禍により東京五輪が1年延期になったことから、スケートボードやサーフィンの余韻が残る半年後に北京五輪でスノーボード競技が開催される。オリンピック種目と化してから北京で7回目を数えるスノーボードは、冬季五輪を代表する人気競技のひとつである。歩夢だけでなく、戸塚優斗、大塚健、片山來夢、平野流佳、鬼塚雅、岩渕麗楽、村瀬心椛ら、国際大会の表彰台の常連が多数存在するのも、その理由のひとつだ。

そこで、ボードスポーツの変遷をたどりながら、スノーボードの歴史を紐解いていきたい。

スノーボードはいつ、どこで生まれたのか?

米バーリントン州に位置するBURTON本社に展示されていたスノーボードの原型「SNURFER」(写真:著者撮影)
米バーリントン州に位置するBURTON本社に展示されていたスノーボードの原型「SNURFER」(写真:著者撮影)

1960年代に産声をあげたとされるスノーボードだが、その起源に関する説はさまざまだ。一般的にはボウリングを事業としていたBRUNSWICK(ブランズウィック)社から子供用の遊具として1966年に販売されたSNURFER(スナーファー: SNOWとSURFERの複合語)とされている。1965年、アメリカのシャーマン・ポッペン氏が娘へのクリスマスプレゼントとして子供用のスキー2本を留めて作ったことに端を発し、そのアイデアを同社にライセンス提供して共同開発したものだ。

しかし、同じくアメリカ人で後のSIMS(シムス)創設者となるトム・シムス氏のほうが早かったという説もある。1963年、シムス氏が13歳のときに木工製作の授業で単板の底に滑走材となるブリキを貼りつけてオリジナルのボードを製作。これが起源とも言われている。

70年代に入ると、あらゆる地でスノーボードの開発が推し進められていった。最古のボードブランドと考えられているWINTERSTICK(ウィンタースティック)は、1972年にデミトリア・ミロビッチ氏によって米ユタ州で設立され、1976年には、カリフォルニア州にて前出のシムス氏によりSIMS SNOWBOARDSがローンチ。そして、14歳の頃にSNURFERからインスピレーションを得たジェイク・バートン氏は1977年、バーモント州でJAKE BURTON SNOWBOARD、現在のBURTON(バートン)を立ち上げた。

さらにこの流れはアメリカだけのものではなかった。1971年にMOSS SNOWBOARDS(モススノーボード)の創始者・田沼進三氏が、サーフボードのウレタンフォームとグラスファイバーを使用したプロトタイプとなるボードを製作し、新潟・妙高高原赤倉で試乗していたのだ。1979年には、世界初となる固定式ハードバインディングを装備したMOSS SNOWSTICK(モススノースティック)の販売を開始。ユタ州、カリフォルニア州、バーモント州、そして日本にて、各々が情報を共有することなく、同時多発的に独自開発を進めていたというのだから面白い。

当時のボードにはフィンが付いていることから深雪が滑走条件であり、バインディングがなかったため舵を取るロープが装備されるなど、雪上でのサーフィンを想定して開発されていた。ボード形状も現在とは異なり、サーフボードのそれを彷彿とさせるもの。補足しておくと、当時はスノーボードと呼称されていなかった。後に北米スノーボード協会が発足した際、スノーボードという名称が誕生するのだが、それまではスノーサーフィンと呼ばれていたようだ。

その後、90年代初頭に巻き起こったニュースクール・ムーブメントがスノーボードを一大産業へ押し上げることになる。詳細については後述するが、その原動力はスケートボードからの影響を多分に受けたものだった。そして現在、日本のベテランスノーボーダーが中心となって築き上げたスノーサーフィンという文化がある。

また、一部のマニア層から絶大な支持を得ている“雪板”をご存知だろうか。自ら木を削り、ノーバインディングでパウダースノーを滑る遊びだ。プロダクトやライディングが進化を続ける一方で、このようなムーブメントが生まれている事実。まさに原点回帰と言えるのではないか。

現代スノーボーディングを紐解いていくうえで、サーフィンとスケートボードとのディープな関係性は見逃せない。

※ウェブマガジン「BACKSIDE」掲載の記事を、2022年の北京五輪の開幕に向け、最新の内容・情報に加筆修正した記事となります

スノーボードジャーナリスト・解説者/BACKSIDE編集長

1974年、千葉県生まれ。大学卒業後、全日本スノーボード選手権ハーフパイプ大会に2度出場するなど、複数ブランドの契約ライダーとして活動していたが、ケガを契機に引退。2004年から世界最大手スノーボード専門誌の日本版に従事し、約10年間に渡り編集長を務める。その後独立し、2016年8月にBACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINEのウェブサイトをローンチ、同年10月に雑誌を創刊した。X GAMESやオリンピックなどスノーボード競技の解説者やコメンテーターとしての顔も持つ。Instagramアカウント @daisuke_nogami

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