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二刀流・平野歩夢が歩み続ける道なき道の起点。スケートボードがスノーボードにもたらした化学反応を知る

野上大介スノーボードジャーナリスト・解説者/BACKSIDE編集長
現在はスノーボードに乗り替え、きたる北京五輪に向けて調整している(写真:松尾/アフロスポーツ)

スノーボードとスケートボードは似て非なる乗り物だが、その本質は変わらない。なぜかと言えば、フリースタイルスノーボーディングの原点にはスケートボーダーたちの情熱があったからだ。

前回の記事「東京五輪を沸かせたスケートボードとサーフィン、スノーボードとその深い関係性とは」で綴ったように、スノーボードは雪上でのサーフィンを想定して開発された。新雪や深雪で滑ることを目的に誕生し、その後アルペンスキーのようにタイムを競い合っていたスノーボード(スノーサーフィン)だが、そこにトリック(技)という新風を吹き込んだ男がいる。

2012年、享年62歳で他界してしまったトム・シムス氏だ。13歳のときにオリジナルのボードを木工の授業で製作したという逸話は前回の記事で触れたが、シムス氏は当時からサーフィン、スケートボード、スキーに興じていたため、ごく自然にそれらの要素を雪上に持ち込もうと“スキーボード”を発明していたのだ。

そして58年の時を経て、ボードスポーツの二刀流として名を馳せる平野歩夢が、冬夏冬連続してオリンピックに挑む道なき道を歩み続けている。その起点は間違いなく、これから綴るストーリーにある。

スケートボードの歴史を知らずして、スノーボードは語れない

先述したように、サーフィンにインスパイアされて誕生したスノーボード。そして、前回の記事で触れたように世界同時多発的に各地で開発が押し進められていくわけだが、その中のひとりであるシムス氏は1965年、スケートボードに熱中していた。雑誌に掲載されていた9フィート(約2.7m)超の長さのサーフボードで波に乗っている写真に大きなインスピレーションを受け、アスファルト上でロングボードに乗る感覚を再現するために、48インチ(約122cm)のロングスケートボードをデザインした。サーフィンを雪上に置き換える前に街中で再現していた、ということだ。世界初となるロングスケートボードが誕生したのである。

サーファーでもあったシムス氏はサーフィン文化に憧れを抱き、1971年に米カリフォルニア州サンタバーバラへ引っ越した。1975年、ロングスケートボードの販売を始めるためにSIMS SKATEBOARDSをローンチ。当時のスケートボードシーンを簡単に説明しておくと、それまでは波がないときのサーファーの練習用、いわば代用品的な扱いだったものが、グラスファイバーを用いたスラローム向けのボードと、合板を使ったランプ向けのボードとに分かれていくことになる。

サンタバーバラのスケートパーク「SKATER’S POINT」。シムス氏の遺志が脈々と受け継がれている(写真提供:Lubo Minar/Unsplash)
サンタバーバラのスケートパーク「SKATER’S POINT」。シムス氏の遺志が脈々と受け継がれている(写真提供:Lubo Minar/Unsplash)

その後、ボウルやハーフパイプを完備したスケートパークが建設されると、1978年にはアラン・ゲレファンドがランプでボードを浮かせる技「ノーハンドエアリアル」を開発し、これは彼のニックネームである“オーリー”として世界中に広まった。このエアトリック誕生を契機として、スケートボードはサーフィンと差別化を図るように独自のライディングスタイルを築き上げていくことになる。

80年代に入ると、トニー・ホークやクリスチャン・ホソイらがバーチカルで活躍し、ロドニー・ミューレンが平地でのオーリーに成功するなどフリースタイルが確立していく。スノーボーダーにも馴染み深いトリックが続々と誕生した時期である。

マイク・マックギルによりマックツイスト(背中側へ1回転半しながら縦方向に1回転を同時に行う技)が、スティーブ・キャバレロがキャバレリアル(通常のスタンスとは反対向きから腹側へ1回転する技)をそれぞれ開発。ちなみにジャパンエア(進行方向に対して前の手で前脚の膝を抱え込むようにしてつま先側のデッキをつかみながら身体をひねる技)というトリック名は、日本生まれのフランス人スケートボーダー、フィリップ・メントーンが東京・清瀬でセッションした際に彼独自のエアを披露し、それを見ていたキャバレロらが帰国して広めたトリック名なのだそう。

しかし、ライダーたちがトリックを加速度的に発展させていった背景には、それに比例するように一般スケートボーダーのケガが絶えないという問題が勃発した。こうしたアマチュアとの格差が広がるなど、一大ムーブメントを巻き起こしたスケートボードは一時的に衰退の一途を辿ることになってしまう。ここでシムス氏は、本格的なスノーボードブランドへの移行を決断するのだ。

シムス氏はまず、メディア戦略に着手した。「SKATEBOARDER MAGAZINE」にいち早くスノーボードを紹介し、同社よりリリースされた後の総合アクションスポーツ誌「ACTION NOW」で特集記事を企画。

さらに、1985年に公開された映画『007 美しき獲物たち』では、主役であるロジャー・ムーアの代役としてオープニングに自らのライディングを世界中に発信するなど、マーケティングにおいて手腕を発揮。スノーボードは北米のみならず、欧州にまで浸透していった。

こうしてスノーボードという乗り物が日の目を見ることになったのだ。

※ウェブマガジン「BACKSIDE」掲載の記事を、2022年の北京五輪の開幕に向け、最新の内容・情報に加筆修正した記事となります

スノーボードジャーナリスト・解説者/BACKSIDE編集長

1974年、千葉県生まれ。大学卒業後、全日本スノーボード選手権ハーフパイプ大会に2度出場するなど、複数ブランドの契約ライダーとして活動していたが、ケガを契機に引退。2004年から世界最大手スノーボード専門誌の日本版に従事し、約10年間に渡り編集長を務める。その後独立し、2016年8月にBACKSIDE SNOWBOARDING MAGAZINEのウェブサイトをローンチ、同年10月に雑誌を創刊した。X GAMESやオリンピックなどスノーボード競技の解説者やコメンテーターとしての顔も持つ。Instagramアカウント @daisuke_nogami

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