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藤原道長の娘の彰子は妹の妍子と違い、なぜ幸運に導かれたのだろうか?その明暗を考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原道長の娘の彰子が2人目の子を産んだ場面だった。彰子は非常に幸運だったが、妍子が不遇だった面も含めて、その理由について考えてみよう。

 彰子が道長と源倫子の娘として誕生したのは、永延2年(988)のことである。彰子は毛量も豊かで、肌はつやつやとして透き通っており、非常に美しかったといわれている。

 彰子が一条天皇に入内したのは、長保元年(999)のことである。中宮に冊立されたのは、翌年のことだった。当時、一条天皇には藤原定子という中宮がいたので、一帝二后という変則的な形となった。

 一条天皇は定子を深く愛していたが、長徳の変で定子が髪を切ってしまい、出家したとみなされた。人々の定子に対する目は厳しかったが、一条天皇は変わらない愛情を持ち続けたのである。

 そんな定子が亡くなったのは、長保2年(1000)のことである。定子の死後、彰子は遺児の敦康親王を引き取り、愛情を注いで育てた。彰子に第二皇子の敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生したのは、寛弘5年(1008)のことである。

 本来、第一皇子の敦康親王が皇太子になるべきだったが、選ばれたのは第二皇子の敦成親王だった。これは道長の意向に沿ったもので、一条天皇の苦渋の決断だった。この決定に対して、彰子は事前に知らされていなかったこともあり、大いに不満を抱いたという。

 彰子が敦良親王(のちの後朱雀天皇)を産んだのは、寛弘6年(1009)のことである。つまり、彰子は2人の天皇を産んだのだから、藤原氏の盤石な体制を支えたといっても過言ではなかった。

 一方で、彰子の妹の妍子は、18歳も年上の居貞親王(のちの三条天皇)に入内した。道長からすれば、一条天皇だけでなく、居貞親王との良好な関係を築きたかったからだろう。

 妍子は非常に美しい女性だったといわれているが、娘の禎子内親王を授かっただけで、ついに皇子を産むことがなかった。このことが彰子と妍子の明暗を大きく分けたといえよう。今では考えられないが、後継者たる皇子を産むことがカギだったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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