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[高校野球]名将にも、駆け出しの時代があった/広陵・中井哲之監督の場合

楊順行スポーツライター
2017年夏の決勝ではまたも涙を飲んだが、センバツではVが2回の中井哲之監督(写真:岡沢克郎/アフロ)

 男気を感じるんだよなぁ。

「これで監督をやめろといわれたらやめてもいい。批判されるかもしれませんが、いわないと変わらないし、教育者としていう権利はある。誰が見てもおかしい。小林(誠司・現巨人)なんて、いくら判定に不服でも、悔しまぎれにミットでグラウンドを叩くような子じゃないんですよ」

 2007年夏の決勝、佐賀北に敗れたあと。広陵(広島)のエース・野村祐輔(現広島)の微妙なコースが、ことごとくボールと判定されたことに対する発言だ。4点リードの8回、押し出し四球で3点差とされ、投げるボールがなくなった野村の甘いスライダーを、次打者の副島浩史が逆転グランドスラム……。公平に見ても、押し出しとその前の連続四球は、ストライクと判定されてもいい球が2、3球はあった。そのことに対する、中井哲之監督の指摘はしかし、高野連から厳重注意を受けた。

厳重注意でも男気を貫く

 1962年7月6日、広島県廿日市市に生まれた。高校進学時には、1973年の春に江川卓(作新学院・栃木、元巨人)を攻略して準優勝し、夏には全国制覇と、全盛だった広島商を志した。対してそのころの広陵といえば、市街地から郊外へ移転して人気が落ちたこともあり、野球部も低迷。長く甲子園から遠ざかっていた。広島商か、76年にセンバツで優勝した崇徳か。進路を迷う中井少年のもとに、広陵の校長がたずねてきた。

「伝統のある野球部を、なんとか立て直したい。ぜひとも、わが校に……」

 中井少年の内心は、(広陵? ないない)だったが、父は「強い学校で甲子園を目ざすのと、助けてくださいといっている学校を強くするのと、どっちが男らしいかわかるよの?」。これが、曲がったことが嫌いで弱い者を助ける男気のルーツである。広陵に進んだ中井は、80年春に10年ぶり、夏に8年ぶりの甲子園出場を果たし、春は4強、夏は8強まで進んでいる。大阪商大を経て母校に赴任し、コーチとなったのが85年。そして、

「3月19日という日付まで覚えているんだから、それだけ衝撃的だったんですよ」

 と中井が振り返る監督就任が、90年のことだ。職員会議の席で、となりの先生が話しかけてくる。哲ちゃん、監督になったん? 当時の中井は27歳。年上の適任者はいくらでもいるし、なにしろこんな若輩が古豪の監督になったら、OBやファンが黙っちゃいない。そんな馬鹿な、なにかの間違いじゃろう……とプリントを手にすると、確かに「野球部監督 中井哲之」とある。4月から監督に。なにかの間違いじゃろう……と確認しても、「いや、決まったことだから」ととりつく島もない。苦笑いしながら、中井監督。

「打診も何もなく、やるしかない状況から監督人生が始まったんです」

 そのころの広陵は、84年のセンバツを最後に甲子園から遠ざかっていたが、監督になった以上は全身でぶつかるしかない。低次元と理不尽が大嫌いな中井は、まずは伝統校にありがちな悪弊を一掃。するとチームは、翌91年にいきなりセンバツに出場するだけではなく、65年ぶりの優勝を果たすことになる。決勝でサヨナラ勝ちした相手の松商学園(長野)は、初優勝した広陵中時代の26年春と同じ顔合わせ(当時は松本商)だった。

ホームレスのおばさんに挨拶を

 生徒には「真っすぐであれ! 正直に生きろ」と説き、選手といっしょに泣き、笑うことが身上。中井から聞いた話で印象深いのは、西村健太朗(元巨人)、白濱裕太(現広島)、上本博紀(現阪神)らがいて、再び頂点に立った03年春のエピソードだ。優勝の翌日、宿舎。キャプテンが「散歩に行っていいですか」と申し出てきた。地元に出発するまでには時間の余裕があるから、許可はしたものの、「どこ行くんや?」と中井。聞くと、毎日河川敷を散歩しながらホームレスのおばさんと顔見知りになっていた。

「ラジオで応援しているさかいな。そんでもしまた夏、甲子園に来てくれたら、自分はもうここにいないようにしていたいもんや。ほんで、アルプスに応援に行きたいわ」

「そうですね! お互いに頑張りましょう」  

 そのおばさんに、優勝の挨拶に行くのだとか。中井は日ごろから、「人に出会ったら、見知らぬ人でもきちんと挨拶せえよ」と教えている。だから生徒たちは、大人なら分別づらして目も合わせないホームレスの人とも挨拶し、日を重ねるごとに会話をし、それが心を開いてくれたのだろう。そして優勝の昂揚のなかでも、おばさんの存在を忘れない生徒たちのまっすぐさに感化された中井も、河川敷まで行って挨拶をかわしたのだという。

「広陵高校で監督をしています、中井です。生徒をいつも応援してくれたそうで、ありがとうございます」

 そのときを含め、中井が甲子園で積み重ねた33勝(17敗1分け)は12位タイ。07年夏の準優勝時には、大会途中に熱中症でダウンするハプニングがあった。が、仮にノーサインでも、選手たちは自ら考え、動く。それは日常から喜怒哀楽を共有し、お互いの信頼を築いているからだ。17年夏、中村奨成(現広島)の爆発などで、夏は4度目の決勝に進んだが、またも涙を呑んだ広陵。ただ、1回目の決勝進出と2回目、2回目と3回目はそれぞれ40年おきだったのが、3回目の07年と17年の間隔は、10年に縮まっている。5度目の正直、もそう遠い日じゃないかもしれない。

※別のサイトでは、帝京・前田三夫監督https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2020/05/08/___split_22/をはじめ、日大三・小倉全由監督、横浜・渡辺元智元監督もとりあげています。そちらも、ぜひ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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