死傷者1万数千人に及ぶ大成功も 世間を震撼させた戦国時代の奇襲戦3選
奇襲戦と言えば、真っ先に桶狭間の戦いを思い浮かべる。この戦いで織田信長は今川義元を破り、天下人の道を歩んだ。ここでは桶狭間の戦いのような有名なものではなく、あまり知られていない3つの奇襲戦を紹介することにしよう。
■河越城の戦い
天文14年(1545)、北条氏康は駿河の今川義元と、駿河の富士川以東の地域をめぐり戦った。
このとき上杉憲政は義元と同盟し、上杉朝定らと北条綱成の籠もる河越城を攻囲した。氏康が不利に傾くと、古河公方足利晴氏も憲政の支援を決定した。
まもなく氏康と義元、憲政らとの間に講和が成立したが、天文15年(1546)4月に再び刃を交えた。
軍勢を率いた氏康は、8千の自軍を4隊に分割し、そのうち1隊を多目元忠に預けた。氏康自身は、残った3隊の軍勢を率い、敵陣の河越城(埼玉県川越市)へ軍を進めたのである。
深夜の午前0時頃、氏康は鎧兜を脱がせた兵士たちを上杉軍に突入させた。作戦どおり上杉軍はパニック状態に陥り、上杉朝定、難波田憲重が討ち死にした。
これにより上杉軍の士気は、一気に低下した。上杉憲政は戦場を離脱したが、重臣の本間江州、倉賀野行政を失う結果となった。
氏康は敵陣深くに切り込むが、戦況を後方で確認した多目元忠は危険を感じ、軍勢を早々に引き上げさせた。
河越城内の綱成は「待ってました」とばかりに足利軍に突入すると、足利軍は敗走した。上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏らの連合軍の死傷者は、1万数千人に及んだ。
この結果、朝定らは戦死し、扇谷上杉氏は滅亡。憲政は上野の平井に逃れ、晴氏は古河に帰った。北条氏は大石定久や藤田邦房らが氏康に服属したので、北武蔵における支配権の確立に成功した。
■稲葉山城の戦い
織田信長は斎藤龍興と敵対していたが、永禄10年(1567)8月1日、龍興配下の美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)が信長の味方に参上し、人質を受け取ってほしいと申し出た。
信長は村井貞勝・島田秀満を人質の受け取りのため遣わしたが、未だ人質が来ていなかった。
にもかかわらず、信長は軍勢を送り出し、井口山を伝って瑞竜寺山(金華山)へ駆け上った。
斎藤方が「これはどうしたことか。敵か味方か」と迷っている間に、織田方は稲葉山城下に火を掛け、すっかり裸城にしてしまった。この日は、ことのほかの強風だったという。
8月2日、信長は城の普請の担当を決め、四方に鹿垣を造作し、城を取り囲んだ。そのとき美濃三人衆が参上した。
8月15日、斎藤氏の残党が信長に降参し、龍興は、伊勢長島へと逃亡した。その後、信長は美濃国を支配し、尾張小牧山(愛知県小牧市)から稲葉山に移り、井口を岐阜と改称したのである。
美濃三人衆が信長の味方となり人質を送ったが、信長は人質を受け取るまでもなく、電光石火で稲葉山城を占拠した。信長は美濃三人衆が味方になったのだから、稲葉山城内は動揺しているに違いないと予測したのだろう。
■観音寺城の戦い
永禄11年(1568)9月に勃発した、織田信長と六角承禎との観音寺城の戦いも著名な奇襲戦の一つである。この戦いは、信長が足利義昭を伴い、上洛した際に勃発した。
同年8月7日、信長と義昭は上洛の通路の確保のため、六角承禎に人質の供出と、上洛の通路確保に協力するよう要請した。しかし、承禎は反信長派の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と連携しており、これを拒否した。
このため9月7日、信長は近江へ出陣すべく、尾張など4ヵ国の軍勢を率い岐阜を出発した。
岐阜を出発した信長は、その日の内に平尾村(岐阜県垂井町)に陣を取り、9月11日には愛知川の近辺に野営した。そして、信長は承禎と義弼・賢永兄弟の在城する観音寺城と箕作山城へ進軍したのである。
同年9月12日、信長は、佐久間信盛・木下秀吉(羽柴秀吉)・丹羽長秀・浅井政貞に箕作山城への攻撃を命じた。午後4時頃に攻撃が開始されると、その日の夜に城は攻略され、直ちに信長は箕作山城へ入って陣を構えたのである。
もう少し詳しく作戦を詳しく見ておこう。秀吉は軍議を催し、夜襲を決行する。秀吉は数百本の松明を用意させると、一斉に50箇所の地点に放火し、これを合図に箕作山城に攻め込んだ。
驚いた箕作山城兵は必死に防戦したが力尽き、夜明けを待たずに城は落ちた。和田山城の城兵は箕作山城の落城を知り、戦わずして城を放棄したという。
9月13日、信長は箕作山城から観音寺城へ攻撃を開始し、その日の内に攻略。承禎父子3人は、城を脱出して甲賀郡へ逃れた。この戦いは「敵を欺くには、まず味方から」という格言どおり、味方すら考えつかなかった信長の奇襲戦だったといえる。
■まとめ
奇襲戦は相手の虚を衝くので、もっとも効果的な戦いだった。そのためには周到な準備が必要で、ときには敵の家臣に裏切り後の高待遇を提示し、内応を求めていたのである。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】