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【深掘り「鎌倉殿の13人」】「13人の合議制」に加えられた三浦義澄の華麗なる経歴

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
荒崎海岸から見た相模湾(神奈川県横須賀市)。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では13人の合議制が成立し、その1人に三浦義澄が加えられた。義澄はいかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■三浦氏と三浦義澄

 三浦氏はその名が示すとおり、相模国三浦郡に本拠を置いた武士団である。もう少し細かく言えば、三浦氏の本貫地は矢部郷(神奈川県横須賀市)だった。

 三浦氏の祖は、桓武平氏である。三浦義澄の父・義明は、三浦半島一帯に勢力基盤を築き、自らは「三浦介」を称した。相模国の在庁官人として活躍したのである。

 大治2年(1127)、義澄は義明の次男として誕生した。義明には義宗なる嫡男がいたが、長寛2年(1164)に合戦で討ち死にした。義宗は、和田氏の祖である。

 義澄の「澄」の字は元服したとき、加冠役の平(上総)常澄から与えられた。加冠役とは、元服の儀式で冠を着ける役目の人のことである。常澄が加冠役を務めたのは、常澄の子の頼次が、義明の娘を妻として迎えていたからだった。

 平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、義澄は父の義明とともに義平に従って出陣した。しかし、義朝は無残にも敗北を喫したので、2人は三浦に逃げ帰った。

 以後、三浦氏は平氏に仕え、その求めに応じて京都大番役を務めた。京都大番役とは、内裏や院御所の警護を担当する役のことで、地方の武士が交代で務めていた。

■重用された義澄

 治承4年(1180)に源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げると、義明・義澄父子もただちに参上した。しかし、頼朝は石橋山の戦いで無残な敗北を喫し、義明は衣笠城の戦いで、畠山重忠に討たれてしまった。

 その後、頼朝は東国の豪族の支援を得て、見事に復活した。その際、強力に頼朝をバックアップしたのは、義澄ら宿老的な立場の人物だった。義澄らは、東国の豪族からの信頼も厚かった。

 義澄は源平の戦いに際して、各地を転戦して勝利に貢献した。特に、壇ノ浦の戦いでは、海戦の能力を高く買われたという。戦後、義澄は相模国守護に任命されたのは、それまでの軍功が評価されたからだった。

 建久2年(1192)、頼朝が征夷大将軍に任命されると、義澄は鎌倉でその除書(辞令書)を受け取る役目を担当した。義澄が頼朝から信頼されていた証でもある。

■むすび

 正治元年(1199)に13人の合議制が成立すると、義澄もその一員に加えられた。義澄は亡き頼朝の信頼も厚く、御家人からの信頼も厚かった。ゆえに、登用されたと考えてよいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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