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平治の乱後、池禅尼が源頼朝の助命を嘆願したので、平清盛は頼朝を殺さなかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝。(提供:アフロ)

 今から864年前の永暦元年(1160)2月9日は、平治の乱で敗れた源頼朝が近江国で捕らえられた日である。その後、頼朝は京都に送られ、死刑が確実と思われていたが、後述するように池禅尼が平清盛に助命を嘆願したので、殺されることがなかった。その理由を考えることにしよう。

 改めて経緯を確認すると、永暦元年(1160)2月9日、頼朝は逃亡の途中の近江国で捕らえられると、清盛がいる京都へと連行された。

 頼朝は処刑されることが確実で、命は風前の灯火だった。頼朝を生かしておくと、将来、清盛に歯向かう可能性があったのだから、当然と言えば当然のことだろう。

 ところが、池禅尼(清盛の義母)は、頼朝の姿は早くに亡くなった我が子の家盛と似ていると考え、清盛に頼朝の助命を嘆願したのである(『平治物語』)。

 別の説によると、池禅尼がまだ幼さの残る頼朝の姿を哀れに思い、清盛に処刑を中止してほしいと申し出たとも言われている(『愚管抄』)。

 いずれにしても、池禅尼による頼朝の助命嘆願により、清盛は考え直して頼朝の死罪を取り止めた。処刑を免れた頼朝は、伊豆への流罪という軽い処分で助かったのである。

 以上が一般的に知られた、頼朝が処刑にならず、伊豆に流罪になった理由であろう。しかし、清盛はいかに義母の申し出とはいえ、そのような理由で頼朝の助命を受け入れたのか疑問が残る。

 実は、源義朝(頼朝の父)には正室の藤原季範の娘のほか、側室として常盤御前、三浦義明娘、波多野義通妹、遠江国池田宿遊女、青墓長者大炊がいた。注目されるのは、頼朝の母・藤原季範の娘である。

 季範は熱田大宮司を務め、娘の中は待賢門院(鳥羽天皇の皇后)、上西門院(鳥羽天皇第2皇女)の女房になった者がいた。季範の人脈は朝廷に浸透しており、頼朝は上西門院、二条天皇の蔵人でもあった。

 近年の研究によると、季範の人脈の上西門院、後白河法皇(鳥羽天皇と待賢門院の子)から頼朝の助命嘆願が持ちかけられ、清盛も受け入れざるを得なかったという。

 清盛が政治を行っていくうえで、後白河法皇ら朝廷の意向を無視することができなかった。池禅尼による助命嘆願は感動的な話ではあるが、今となっては疑わしいと指摘されている。

 また、平治の乱が院近臣同士の争いであり、義朝は藤原信頼に従って戦ったにすぎなかった。近年では。それゆえに子までも根絶やしにする必要はなかったとの指摘もある。

 清盛に義朝の子らを根絶やしにする気がなかったことは、義経らが生き残ったことから明白である。確固たる地位を築いた清盛にとって、斜陽の源氏は眼中になく、流罪や出家という処分で十分だったのである。

主要参考文献

元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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