W杯ブラジル戦の衝撃ゴールから15年、41歳・玉田圭司が語る現役を続ける理由
「史上最強」との呼び声が高かった2006年ドイツワールドカップ(W杯)の日本代表。しかし、初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)の逆転負けのダメージは大きく、ジーコジャパンは3戦未勝利の惨敗。日本中がショックに打ちひしがれた。
そんな中、第3戦・ブラジル戦(ドルトムント)で先制ゴールを挙げたFW玉田圭司(長崎)は数少ない希望の光となった。
「正直、鮮明には覚えてない。ボロ負けしたけど、いい思い出です」と振り返る点取り屋は、名手・小野伸二(札幌)から「おまえだけはちょっとブラジルに通用してた」と称賛の言葉もかけられたという。
大舞台の貴重な体験も糧にしつつ、その後の15年間も全力で走り続けてきた。4月11日に41歳になるプロ23年目のストライカーに現役を続ける理由を聞いた。
「本当のJ2クラブに来た」と語る真意
2021年J2が開幕してから1カ月半。昨シーズン、惜しくも3位でJ1昇格を逃したV・ファーレン長崎は、吉田孝行監督率いる新体制で再スタートを切った。が、序盤は6試合戦って、2勝1分3敗の暫定14位。予想外の苦戦を強いられている。
チーム最年長の40歳・玉田圭司もここまで3試合で途中出場し無得点と思うような結果を残せていない。「先発でやれる自信はあるんだけどね…。チームもこのままじゃいけないっていう危機感はすごく強い」と移籍3年目の現状に焦燥感を抱いていた。
――2018年に名古屋グランパスとの契約が満了になった時、玉田選手が九州のクラブに行くというのはかなり意外でした。
「千葉出身の自分には正直、長崎には縁もゆかりもなかったし、九州に行くなんて考えたこともなかった。でもテグさん(手倉森誠・現仙台監督)に誘ってもらったんです。最初は即決できなかったけど、来てみたら新しい発見がいろいろあった。J2はセレッソ大阪と名古屋で経験していたけど、『本当のJ2クラブに来たな』と長崎に来て初めて感じたんです。自分が今までやってきたことが通用しないなって感覚もありましたね」
――それは環境面を含めて?
「環境もそうだし、プレー面で他の選手に伝えても分かってもらえないところがあったんですよね。例えば、自分がボールを持ったら、味方がここにいるだろうと思って前を向くと誰もいなかったりする。噛み合わないことが移籍1年目はかなり多かった。小さな出来事の積み重ねなんだけど、モヤモヤして仕方なかったですね。
それに、2019年のチームはガムシャラに走るサッカーをしていた。それじゃあJ1に上がっても通用しないと感じました。いつ走るのか、どうつなぐのか、どういうポジションを取るのかを僕なりにしつこく言ったし、周りに伝えようと努力した。もともと自分からアクションを起こすタイプじゃなかったし、昔の自分とはすごく変わりましたね」
長崎を「勝てる集団」に変えるために
――2004年に日本代表入りした頃は、自分の感覚でプレーしていた印象でした。
「ヒデ(中田英寿)さんや俊さん(中村俊輔=横浜FC)、伸二さんみたいに優れた出し手がいっぱいいたから、パスが思ったところに出てくるし、楽しかったですね。すごい個性的なメンバーがそろっていて、みんな能力も自信もありましたし。それは2010年にJ1優勝した名古屋もそう。ストイコビッチ(現セルビア代表監督)は『勝利のメンタリティ』とよく言っていたけど、ナラさん(楢崎正剛=名古屋CSF)にしても、(田中マルクス)闘莉王にしても『俺たちは勝てる』ってつねに思ってましたからね。個性がまとまった時のチームはやっぱり強い。どうすれば長崎をそういう集団にできるかを日々、考え続けてます」
――強烈な個性が集まっても、ドイツW杯のように結果が出ないこともあります。
「ジーコジャパンに関して言えば、W杯の結果だけで『失敗』と捉えるのは違うんじゃないかな。W杯前の親善試合でもいい試合をしていたし、チェコやギリシャといった強豪国に勝ったこともあった。チーム力は相当高かったし、ハマればW杯でももっと結果を出せたはずですよ」
――2010年南アフリカW杯まで一緒に戦った同世代は能力の高い選手の集まりでした。
「それは間違いない。ベテランになった今、『40歳だから1週間に2試合はムリだろ』みたいに思われたくないってプライドはみんな持ってると思います。僕らは長いキャリアの中で体調に合わせてコンディションを作れるようになってるから。自分も昔だったら全部120でやってたところを今は一部だけ60にするといったメリハリをつけてますしね」
大久保嘉人の活躍をどう見ている?
――そんな中、今季は大久保嘉人(C大阪)の再ブレイクが大いに光ります。
「嘉人が開幕から8試合スタメン出場して5得点を叩き出してる姿を見ると、素直にうれしいし、すごく刺激になります。40歳近くなってコンスタントに試合に出れるのは、能力があってこそ。あとはチームにハマるかハマらないかが大きい。サッカーはチームスポーツだから、1人でやれるわけでもないし、周りがその選手を見えているかどうかが大事。今の嘉人は結果が出ているからこそ、自分も乗っていけるし、周りも見てくれるようになる。すごくいい循環ですよね」
――玉田選手もそういう関係性が必要ですね。
「今は自分が俊さんや伸二さんみたいにお膳立てする役割も担ってるから、もっとやらないといけない。もともと僕は点取り屋じゃないし、『点も取れるチャンスメーカー』が理想。チームを動かして、この苦境を打開していきたいんです」
「今の状況には納得できない」
――苦しみや挫折を味わいながらも、40代になった今、現役を続ける理由は?
「やっぱり長崎をJ1に昇格させるっていう明確な目標があるからじゃないですか。そういう可能性のあるクラブに所属してなかったらやめているかもしれない。長崎には2024年に新スタジアムができますし、それに相応しいクラブにならないといけない。その領域まで引き上げたいというのが素直な気持ちなんです。
仮にJ1に上がれたとしても『昇格したからこそ、もっと俺の力が必要』って思うかもしれない(笑)。サッカーは奥深いし、指導者ライセンスも取った分、若い頃には見えなかったものも見えてきてますからね。まだまだやり切ったとは思えないかな」
――J1通算ゴールも99点。昇格しないと100の大台は達成できません。
「そのためにやってるわけじゃないし、今はそれを言える立場でもないんで(苦笑)。もしこのチームがJ1に上がって、そういう舞台になったら意識すると思いますけど。そうなれるように頑張ります」
――最後に41歳の目標は?
「41(よい)だから、良い年にしたいですね。去年が本厄だったことを最近知ったんですけど、つまり今年は後厄。それを吹き飛ばすようなパワーをつけられるようにしたい。だからこそ、もっと試合に出たいんです。今の状況には正直、納得できないし、自分はまだまだやれる。毎週試合に出て、フル稼働して、刺激を味わいたいんです。
とにかく楽しくやりたい。先発で出たい。そう大きく書いてください(笑)」
若い頃からイケメンとして知られていた玉田だが、見た目も技術も感覚も全く老け込んだ印象はない。どんな時も躍動感と決定力を示せるのが、彼の強みである。
24歳で初めてジーコジャパンに呼ばれ、2004年アジアカップ(中国)制覇の原動力になった時のように、今でもピッチ上で違いを出せるはず。ここから長崎のJ1昇格請負人としていぶし銀の働きを見せてほしい。
■玉田圭司(たまだ・けいじ)
1980年4月11日生まれ。千葉県出身。習志野高校卒業後、1999年に柏レイソルに入団。2006年に名古屋グランパスエイトに移籍、2010年には名古屋のリーグ初優勝に貢献。2015年にセレッソ大阪に移籍するも、2018年に名古屋に復帰。2019年からV・ファーレン長崎に所属。日本代表には2004年に初選出され、2006年ドイツW杯と2010年南アフリカW杯に出場。2006年のブラジル戦ではゴールを決める。