「弱さ」と「矛盾」を軸に、特異な“思想家”長渕剛の実像に迫る――杉田俊介インタビュー
あなたにとっての長渕剛像とはどんなものだろうか。
ファン以外の人にとっては特攻隊の映画『男たちの大和/YAMATO』に主題歌を提供したとか、桜島や富士山麓で超長時間ライブを敢行した、といった断片的な情報を耳にするくらいかもしれない。
僕は特攻隊や自衛隊を賛美する、マッチョなアーティストという偏見を持っていた。
しかしそうした単純化はまったくの誤りだと知らしめる本が登場した。
文芸批評家の杉田俊介氏による『長渕剛論 歌え、歌い殺される明日まで』である。
この本は長渕剛のヒストリーを丹念にたどり、歌詞を読み込み、本人と対話しながら、長渕剛の「男らしさ」とは何なのかを掘り下げていく。ただしこの本は「男らしさ」なるものを、人間が誰しも抱える弱さ、変わろうと思っても変わることができない自己矛盾、ある種の情けなさからとらえなおすのだ。
ねじれている。
そのねじれを体現する長渕剛という表現者がもつ複雑で独特な思考を、杉田氏は丁寧に読み取っていく。それは圧倒的にスリリングで、発見に満ちた読書体験である。
杉田氏に長渕剛・真論を訊いた。
■長渕剛がいかつい男ばかりではなく、女性や老人にも愛されているのはなぜか?
――『長渕剛論』、あまりにもおもしろく、読んですぐインタビューを申し込ませてもらいました。今日はよろしくお願いいたします。僕は中1のときにクラスのヤンキーが学校にアコギを持ってきて長渕の曲を歌って喝采を浴びているのを見たのが長渕楽曲との出会いだったんですね。しかもそいつが僕の好きだった女の子と付き合ったので、ご本人とは無関係だとわかりつつ、呪詛のまなざしでしばらく長渕剛という存在を見ていたんですが(笑)、長渕さんのファンは決してそういうヤンキーばかりではないんですよね。
杉田:中学2、3年生のころ「とんぼ」がドラマになって、英二役で主演していたのを観たのが、僕にとって長渕さんという存在との出会いでした。クラス中のかなりの男子が夢中になっていました。ヤンキー系も、いじめられやすそうな子たちも、そのどちらでもない僕のような人間も。たぶん、長渕さんが体現している、男としての強さとやさしさの葛藤みたいなものを、思春期の男子中学生だった僕らは、無意識であったにせよ、けっこう敏感に感じ取っていたのではないでしょうか。
昨年夏の富士山麓オールナイトライヴの会場も、いかにも長渕ファンという感じの黒づくめのヤンキー的な人たちばかりなのかなと想像していたら、線の細い感じの男女のカップルもいれば、折り畳み式のイスに座ってのんびり観ている70歳くらいの老夫婦もいた。老若男女、色々な層が分け隔てない感じで、長渕ファンの層の厚みを感じました。
長渕さんは実際に、たんなるマッチョではなく、男としての弱さや女々しさもずっと抱え続けてきた。だからこそ、男らしくない男性たちや、自分の弱さに苦しんで日々葛藤している庶民たちの心にも、彼の歌や存在が自然に染みとおっていく、そういう面があるのではないでしょうか。
■筋肉と「鎧」の奥にある、弱さと孤独
――長渕さんが体を鍛えるのは自分を裏切ったやつに街でふらっと出会ったときに「よっ、久しぶり! 貴様! 元気か? と笑える、本当の意味で強い人間になりたい」からだ、と。強いものに対する憧れがあるのから鍛えているのかと思ったら、単純にそういうことではない。杉田さんが本の中で長渕さんに老いについてどう思うかと問うたら「身体が壊れてしまってはじめて、余計なものが消えて、そこから初めて出てくる歌があるんだろうね」、体が動けなくなったら、動けないなりの表現をすると思うと答えています。非常に独特な考え方です。
杉田:僕は介助の仕事で障害者や子どもたちと接してきたから、長渕さんが年老いてそういう状況になったらどうするのか気になって、率直に尋ねてみたんです。「体が動かなくなったら自分は終わりだ」という答えが返ってくるのかと予想していたら、はっきりと「その時なりの表現を探すと思う。楽しみだねえ!」って。個人的な思いもあって、グッときました。
――杉田さんが三島由紀夫と比較されていたことも、興味深かったです。屈強な身体と不釣り合いに映る内面性であるとか、たしかに通ずるものを感じます。
杉田:文藝別冊の『長渕剛:民衆の怒りと祈りの歌』(河出書房)では、かつての保田與重郎や三島由紀夫のような日本浪曼派の系譜に位置付けて長渕さんの存在を考えてみる、という原稿を書きました。今回の『長渕剛論』には未収録なので、この文藝別冊の『長渕剛』も手に取って頂けるとありがたいです。じつは、長渕さんが体を鍛えたサンプレイの宮畑豊さんは、かつて三島由紀夫の肉体改造を指導し、元横綱千代の富士の鋼の肉体を作り上げた立役者でもあるんですね。宮畑さんは高齢者のための肉体トレーニングの第一人者でもあります。
――吉田豪さんが長渕さんにインタビューしに行ったら取材場所がジムで、いきなり筋トレを見せられた「普通の撮影スタジオに大量の器具を持ち込んで本格的なジムにしちゃってたから驚いた」と語っていましたが、身体強化には深い意味があったのだと考えを改めました(2016.5.2訂正)。
杉田:素顔と仮面が同じになっているというか、三島由紀夫的な「仮面の告白」とは少し違う形だと思うけれど、長渕さんの場合、きまじめさの中にもオカシさというか、独特のユーモアがにじみ出てくるところがありますよね。自決や自衛隊に対する決起の呼びかけも含めて、長渕さんには三島に対する様々な違和感があるようです。
――いま「仮面」という言葉がありましたけれども、長渕さん自身が「長渕剛」という存在を「演じている」という言い方をされていました。しかもそれは本人にとって快いことというより、自分の弱さと向き合うがゆえに、外側に対しては「鎧」をまとい続けなければいけない、というような感じもある。
杉田:ある種の孤独さはあるのかな、と。たとえば富士山麓ライヴを終えて鹿児島に戻っていた長渕さんに、NHKの二宮直輝アナウンサーがインタビューをする、という番組があったのですが(「インタビューここから」2015年11月3日)、最初に「ライブを振り返ってどうでしたか?」と聞かれて「覚えていないんですよ」みたいな言い方をしていて、それはちょっとびっくりしたというか、不意を突かれました。10万人が結集した巨大な祭典をやりきったあとにさえ「覚えていない」と感じざるをえないような、ある種の独特な孤独感があるのだろうか、と。正直、僕のような人間には想像もつかないのですが、誰とも分かち合えない哀しみを抱えているのかもしれません。
■教祖的存在に見えるが、誰に対しても全力を求めているだけ
――何万人もファンを集めて、長渕さんは教祖的な存在にも映りますが、杉田さんが指摘するところによると、権力欲みたいなものはないと。
杉田:何度か直接お話させていただいたんですが、僕のような人間に対しても、上から目線のところが少しもなかったんですよ。お目にかかるきっかけは、河出書房の編集者さんが僕の「すばる」の原稿を、長渕さんに「こんなものがありますよ」と紹介して、長渕さんがそれを読んで、その編集者さんのLINEに一言、素晴らしかった、みたいなメッセージをくれたらしい。
僕の書くものはいつも、相手を手放しで賞賛し肯定するものではなく、批判や疑問をふくめて相手の核心に迫ろうとするタイプのものです。長渕さんはそういう僕の原稿を読んで、それでも何かを感じてくれた。それをきっかけに、最初に中目黒の事務所にお会いしに行ったときも、初対面の僕に対して、すごく繊細に気を遣ってくれた。こういう人なんだな、と感じ入ったのを覚えています。ただ、その時はたぶん富士山麓ライブのDVD制作の追い込みの時期だったためか、事務所の中には独特の緊張感も漂っていました。そういう両面を含めて、長渕さんの独特の存在感を味わいました。しかも、初対面の僕もなぜかDVD制作の打ち合わせの場に交じっていて、「杉田くん、どう思う?」といきなり意見を求められたり……(笑)。
かつての桜島コンサートのDVDを観ても感じますが、何よりも、相手の本気度が足りないと、それがいちばん物足りないんでしょうね。「君の本音をぶつけてくれ」と。そういう意味でも、権威的な上下関係のようなものを僕は感じませんでした。誰に対しても平等に、いわば120%の熱量を求めていくような。初対面の僕に対してもですよね。もちろん、僕なんかは何度かお会いしただけですし、身近でお仕事をされているスタッフの方々にはすごく緊張感があるとも想像しますが……。でも、やっぱり、そういうところが怖さでもあるし、魅力でもありますよね。
■長渕剛の内面に、文芸批評の方法論で迫る
――僕は特攻隊を描いた映画『男たちの大和』の主題歌「CLOSE YOUR EYES」で長渕さんのイメージが止まっていて、右寄りなのかなと思っていました(その観方自体が、杉田さんによると単純化のようですが)。でも3・11のあとは反原発ソングを歌って安倍政権を批判している。それも知りませんでした。
杉田:「震災のあとに左傾化した」みたいな言い方をする人もいましたが、べつにそういうわけでもないですよね。自衛隊や特攻隊の青年たちに共感しながらも、もともと、はっきりと反戦平和を訴えていたし。たとえば東日本大震災の死者への鎮魂を込めた「ひとつ」という曲は、とても繊細に、言葉にできない個人の沈黙や悲しみに、どこまでも寄り添おうとする歌でした。震災直後には「絆を大事に」みたいなわりと安易なナショナリズムを煽る空気があって、僕はそれが嫌だったので、長渕さんの「ひとつ」は心に響いた。「ひとつ」という言葉の意味を組み替えられてしまった。むしろ、決して死者や他者とは一つになれない、という痛みと悲しみの歌であり、だからこそ、一つになれない死者や他者にそれでも寄り添っていこうとする、そんなぎりぎりの繊細な歌でした。
長渕さんの中には、「日本」や「日本人」みたいな大きな次元の話と、小さな一個人が抱える痛みの間をつねに往き来するような、そういう振幅があります。だから一方では、さまざまな他者や対象にダイレクトに憑依しようとするんだけど、同時に他者とは絶対に一体化できないというか、憑依や共感を突き放していくところもあります。そういう両極があるのではないか。たとえば10万人の人間の熱気に囲まれたときにこそ、もっとも冷たい孤独や淋しさを感じてしまうような……。
そもそも長渕剛という人は、右なのか左なのか、男らしいのか女々しいのか、強いのか弱いのか。そのいずれでもあり、そのいずれにもおさまりきらない。わかりやすい人だと思われているかもしれないけど、本当はかなりわかりにくいところがある。というか、そういう無数の矛盾を内側に抱え込んでいるからこそ、長渕剛は長渕剛であり続けてきたのではないでしょうか。今回の『長渕剛論』では、そういう複雑な矛盾や葛藤をできるかぎり見つめるところから、長渕剛という一人の人間に向き合ってみようとしました。
長渕さんはたぶん老若男女にその存在を知られている人ですよね。70歳近いうちの両親も、彼のことは知っている。けれども、先ほども言いましたが、長渕さんはこれまで、音楽評論や文化評論の対象としてはあまり取り上げられてこなかった。今回一冊の本を書くために先行研究を探したけど、ほとんど見つけられなかった。そのギャップが不思議な気もしたんです。
僕はもともと文芸評論畑の人間で、音楽の知識は全然ありません。今回の本も音楽的な面からは一切何も論じられませんでした。その代わり、対象になる人を一方的に賞賛したり、あるいは逆に一面的に批判するのではなく、その人が抱えた矛盾や葛藤を丸ごと受け止めて、その矛盾や葛藤について全身全霊で書き尽していく――そういう文芸評論の方法によって長渕剛に迫ろうとしたつもりです。たとえば文芸評論家の江藤淳が、若い頃に夏目漱石論を書いているのですが、江藤の漱石論は、当時あまりにも神格化されていた夏目漱石をむしろ裸の人間として、矛盾も弱さも抱えたひとりの人間として評伝を書いていく、という試みでした。僕も今回は、長渕さんを神格化もネタ化もせずに、ひとりの人間として向き合ってみたかった。
――作家の内面に入ると言えば、第六章の10万人を集めた伝説の富士山麓ライブレポートの途中で、それまで一人称が「僕」だったのが突然「俺」になりますよね。「あれっ?」と思って。高まりすぎてスイッチが入っちゃったのかな? と。
杉田:初出の「すばる」掲載版だと、レポートの一人称は、最初から最後まで「俺」で通していたんです。だけど、この本の編集者担当者と話していて、「途中から杉田さんが長渕剛に憑依していて、人称が変わった感じがある」と。たしかに最初は客観的に距離が取れていたんだけど、観ているうちに「僕」が「俺」になる、長渕さんの存在感に憑依され、また憑依してしまうような、祭りの場に特有の、自他の境界線が溶解してしまうような陶酔感があった。そうした空気を文章として表現し、かつ批評してみたつもりです。だから最後に、川崎の自宅に帰ると、もう一度「俺」から「僕」に戻って、個人としての杉田の語りで論は終わる。
――それもこの本で語られている長渕さん像に合致していますよね。ひょっとしたら長渕さんはひとりでいるときは自分のことを「僕」だと思っていて、でもいざステージに立って人前で表現するときは「俺」になり、そしてまたナイーヴでもろい「僕」に戻っていくのかもしれない。
杉田:長渕さんって、わりに女性の一人称の曲も歌っていますよね。昔はよく「あたい」という表現を使っていた。「俺」という一人称では収まらないようなやわらかい部分――僕は「女々しさ」という言葉を両義的な意味で使いたいのですが――を表現するときに「あたい」「あたし」という女性の一人称語りになるのかな、という気がします。
■批判や疑問も書いた原稿に対しても、手を入れることはしなかった
――本全体の流れもおもしろかったです。長渕さんのデビューから富士山麓ライブまでを辿りながら杉田さんが議論を積みかさねていって、クライマックスの第七章で長渕さんとの対話がある。そしてそこで長渕さんが、杉田さんの原稿を読んだうえで、意表を突くような返しをしてきて、それを受けて本が閉じられていく。
杉田:『長渕剛論』はメタフィクショナルな批評の本になったかもしれないですね。たとえば一人称でつづられていく太宰治の『人間失格』が、最後に他者からの別の視点が入って、それまでの一人称の私語りが突き放されていく。そういう感じです。ただ、この本の構成は狙ったものではありません。たまたまそうなったんですね。最初の予定では、この本の中に長渕さんとの対話が入る予定はなかった。原稿執筆の最終段階で(そのころはまだ、毎日新聞出版の企画が正式に通るか通らないかの時期だったと思います)、長渕さんと何度かお会いする幸運に恵まれて、それならばぜひ、インタビューか対談に挑んでみたいと。それで、その段階までの原稿をお送りして、直筆の依頼の手紙を添えたんです。快諾を頂いて、現在のような形での「対話」になりました。その意味では、とても幸運な作られ方をした本だと思います。
長渕さんはこの本の原稿を二度、読んでくれたのですが、「すばる」の時と同様に長渕さんのことを率直に批判したり、疑問を述べていると取れる部分もありますから、正直、僕も「大丈夫かな」と緊張していたんです。けれども、単純な僕の事実誤認とか、本人以外の誰かに対して迷惑をかけるかもしれないような部分を除いては、ほとんど訂正らしい訂正や修正はありませんでしたね。すごく堂々とした感じでした。
もちろん僕の見解や考え方をそのまま受け入れているというわけではなく、実際に「対話」の中では、僕の見解や考え方に対する反論や異論もはっきり述べてくれていますから、その意味でもあの「対話」が実現できたことは本当によかったなと。たとえば暴力についての僕の考えと、長渕さんご本人に考え方の違いなどが対話を通して浮き彫りになった。それは本書の読みどころでもあるのではないでしょうか。
■独自の「暴力」観と「圧倒的な加害者である」という意識
――なるほど。ひょっとしたら、長渕さんが「長渕剛」という「鎧」を着ているその部分に対して斬り込んでくる人間に対しては「鎧」をもって処するけれども、杉田さんのようにその奥にある内面に分け入ってきてくれる人間に対しては、ひらけているのかもしれないですね。長渕さんをおもしろおかしくネタにするような人、あるいは不必要に攻撃的な人間に対しては防御するのかな、と。
杉田:正々堂々としていない人間が嫌なのかな、と。正面突破を試みてくれる相手のことは、まっすぐ受け止めてくれるのかもしれない。彼が心から嫌う「暴力」って、自分がいない場所でこそこそ動いたり、ごちゃごちゃ当てこすりをするような、そういうことなんじゃないかな。
――長渕さんが杉田さんとの対話で語っている「暴力」観は「専守防衛」ですよね。やられたら、やりかえす。そのときのために鍛えておく。でもやられた分をやり返したらそれで後腐れなし。自分はそういうこと以外はしていない。他人を一方的に傷つけるという意味での「暴力」を振るったことはない、と。
杉田:そうした態度を誰に対しても等しく求めるところが、長渕さんらしいところなのかもしれないですね。僕の『長渕剛論』は、長渕さんに対して時に憑依し、時に距離を取ろうとする、その悪戦苦闘の記録という感じですが、もちろん、もっと色々な角度からの長渕剛論があっていいと思います。他の人が書いた長編の長渕剛論も読んでみたいですね。
――「暴力」の話が出てきたのでうかがいたいのですけれども、長渕さんが杉田さんの対話の中で「自分は圧倒的な加害者だ」と言っています。それがどういうことなのかつかみかねているのですが、杉田さんはどう捉えていますか。
杉田:僕の中には根深い「被害者意識」があったし、今もかなりあります。自分が被害者であるがゆえに、誰かや何かを批判し、その攻撃が過剰になっていく。それでますます自分のことが嫌になり、被害者意識がさらに募っていく……という悪循環をどうやって断ち切っていくのか。そういう問いが僕の中にはありました。僕は長渕さんの中にもそういう問いがあるのではないか、と想像していたんです。でも、そうした僕の問い方自体に長渕さんは根本的な違和感があったのだと思う。というか、むしろ、さらにその先のことを考えていた。「人間は生きているかぎりは誰かに対して加害的にふるまっているはずだ」、つまり「自分は大いなる加害者だ」と。
正直に言えば、僕にも、この「大いなる加害者」という言葉の意味は、はっきりわかりません。ただ、何か、被害者意識の悪循環を抜け出すヒントがあるような気がして、根本的に僕の問いを突き放されたというか、それこそ大いなる解放感の手触りがあったんですよね。被害者意識をどんなに内側から否定しようとしても、否定しきれないし、必ず悪循環に陥る。だから、大切なのは、被害者意識からはじめないことなのではないか。しかし他方で長渕さんは、対話の最初の方では、暴力そのものを否定してもいます。自分はまったくそういう意味での暴力を振る舞ったことがない、と。とすると、「大いなる加害者」であることと「暴力的に振る舞うこと」の間には、微妙な違いがあるということになります。それが何を意味するのか、繰り返しますけれども、今の僕にははっきりとはわからないんですね。ただ、そこには、被害者意識や暴力の問題を考えるときの、大切なヒントがある気がしました。僕の問いそのものを突き放すような長渕さんの言葉を聞いた時には、「これだけ長い間暴力に苦しんできた人が、こういう境地に達するのか」という、何か晴れやかな気持ちがあったんです。
――長渕さんが、まずは自分の弱さを認めることだ、表現はそこからしか始まらない、と杉田さんに語っていましたが、それがどれだけ難しいことか……と思うんです。
杉田:自分の弱さを認められない、という弱さ。言葉にすればじつに単純なそのことが、じつは、この世の諸悪の根源かもしれない。自分の弱さを認められないからこそ、他人に対して過剰に暴力的になったり、周りにやたらと「敵」を作ったり、無意識のうちに自分を否定し続けなきゃ生きられないとしたら。それは緩慢な自殺に近いですからね。僕も自分なりに弱さの問題には向き合ってきたつもりだったんですが、長渕さんとの対話を経て……「まだまだだな」、と背筋を正されるような思いでした。
■宮崎駿と長渕剛の共通点
――杉田さんは宮崎駿論も書かれていますよね(『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』)。宮崎さんと長渕さんはパブリックイメージでは対極にある気がしますが、何か相通じるものは感じますか。
杉田:長渕さんも宮崎さんも、自己嫌悪や自己否定がすごく強い人だと感じます。自分を許せない、という気持ち。しかしそれが創作活動のガソリンになり、原動力にもなってきた。宮崎さんにも独特の男嫌い(ミサンドリー)があるんですよね。僕はそういうタイプの人が好きみたいです。だから今回の『長渕剛論』は、ウーマンリブやフェミニズムに対する、男たちの男性学やメンズリブという潮流がありますけれども、僕なりの「男性学」の本でもあります。フェミニストに限らず、女性たちの感想も聞いてみたいですね。「男らしさの呪縛を内側から食い破ろうとする」本ですから、僕の書き方自体が逃れがたくマッチョなのかもしれないし。
宮崎駿は、世間的には「明るく楽しく健全」というイメージがあるかもしれないけど、彼の作品の中に出てくる大人たちには、結構「死にたい」という欲望があるんですよね。人類なんてさっさと亡びろ、と。本人も、大好きなはずの子どもですら、3歳を過ぎると途端にくだらなくなる、とか酷いことを言っているし。以前に書いたものとしては、『宮崎駿論』は僕自身が「これは自分でも好きだ」と一番素直に受け入れられる本で、たぶん僕の思考としては一番深く、一番広い場所へたどり着けたと思っているので、『長渕剛論』を面白く読んでもらえたら、宮崎論も読んでくれると嬉しいですね。
それからもうひとつ、長渕さんと宮崎さんに共通点があるとすれば、この国の誰もが知っている存在でありながら、あまり正面から論じられることがないというか……いや、宮崎駿研究なるものは、星の数ほどあるのですが、宮崎さんの人間的な苦悩にしっかり寄り添って何かを書こうとする人は、あまりいなかったのではないか。物語分析や謎解き、小ネタの本は山ほどありますけど。その辺は、長渕剛に対して正面から向き合った論考や評論がほとんど存在しないことと、どこか似ている気もします。
――作家の内面に分け入って語ることは、たしかに宮崎さんも長渕さんもあまりなされてこなかったかもしれません。そしてそれは文芸批評のやり方でなければ、できない。
杉田:文芸批評という方法が正しいとも考えてはいませんが、僕には宿命的にこういう書き方しかできなかった。そしてこういう書き方を貫いたものとして、『宮崎駿論』と『長渕剛論』、そして近刊予定の『「ジョジョ」論』の三冊でワンセットになっています。ちなみに『宮崎駿論』のテーマは「子供と自然主義」、『長渕剛論』は「男性と愛国主義」、『「ジョジョ」論』は「障害と資本主義」で、一応僕なりのサブカルチャー三部作(アニメ/歌/マンガ)のつもりです。
――ミュージシャンでほかに思い入れがある方は?
杉田:僕は『イカ天』が流行っていた頃のバンドブーム世代ということもあって、ブルーハーツ、たま、筋肉少女帯の影響がかなり強いです。彼らのことはいつか何か書きたいのですが、あまりにも思春期や幸福な時代の思い出と密着し過ぎていて、冷静に論じるという感じではないのかな。それから、これはぜひ近いうちに書きたいのは、宇多田ヒカルさんですね。歌い手というよりは現代的な「詩人」として、我々の時代の労苦や汚辱を背負ってそれを歌として浄化してきた稀有の存在として、あの人には惹かれますね。惹かれると同時に、畏れているというか。かつて吉本隆明が鮎川信夫を論じたり、秋山駿が中原中也を論じたみたいに、文芸批評としての宇多田論には挑戦してみたいですね。
■思想家としての長渕剛の、存在を聴き取る
――最後に『長渕剛論』をこれから読むひとに向けてお願いします。
杉田:そうですね、長渕さんは一人の稀有な歌い手であると同時に、ある意味で思想家だと思うんです。日本的なロマン主義者の系譜という言い方をしましたけど、彼の生き方そのものが一つの思想であり、その軌跡を示しているのではないか。しかも、言葉だけの言いっ放しじゃない。自分の言っていることとやっていることの矛盾に苦しんで、その矛盾自体をねじ切って、浄化するかのような「歌」にして、つねに自らを高めようとしてきた。そういう意味での思想であり、思想家としての歌い手だと思う。たんに「いい歌だね」と消費的に聞き流せるものではなくて、彼の存在や生き方が丸ごと込められた歌であり、詩ですよね。
よく社会問題や政治問題を口先で提起ばかりはするけれど、実際には身を切って何かをするわけではない、そういうタイプの「問題提起」型の人たちが世の中にはたくさんいますけれど、長渕剛という人の場合は、彼自身の矛盾した存在のあり方自体を歌や思想にしていく、いわば「存在提起」の人だと思う。それがロマン派的な思想の意味であり、長渕さんの歌の在り方ではないでしょうか。
長渕さんのことが好きか嫌いか、肯定するか批判するかという話の前に、長渕剛という人間を一面的に評価してずいぶん誤解している人や、ネタとして消費することしかできない人がちょっと多いのかなと。もう少し長渕さんの多様な人間性や、ある種の厄介なわかりにくさを感じ取ってみたら、どうだろう。そしてこの本がそのためのきっかけになってくれたら……そういう思いを込めたつもりです。もちろん、これも他人事ではないんですよ。本書の中でも告白しましたが、僕も思春期に一度、長渕さんの憂国的な言動に付いていけなくなって、それからは長い間、長渕さんのことを一面的にとらえて誤解し続けてきたのですから。
そして長渕剛に向き合うという経験を通して、この国に住む人々がもっと強く、もっとやさしくなっていけたらと。長渕さん自身も、そういうことを願い、祈っているのではないか。そもそも長渕さんは、国籍としての日本人だから手放しで褒める、ナショナリズム的に無条件に一体化できる、というような人ではないですよね。他人に優しくなるには強くならなきゃいけないし、自分の足で強く立つためには限りなく優しくなれなければいけない。他者に対する(そして自分自身の存在に対する)本物の寛容さとは、そういう矛盾した精神のことでしょう。それは権威的な右派とか、ネトウヨ的な排他性とは全然違うものだし、またオールド左翼的な厳格さともやはり違う。そういう強さと優しさが、そしてその奥にある繊細な優しさが、長渕さんの歌や存在に乗って、さらにこの世界をかけめぐっていけばいい。僕も今後もそういう厄介なことを自分の問いとして、つまり存在提起として、考え続けていきたいです。そして皆さん自身にとっての「長渕剛論」が歌になって流れ出すのを、ぜひ聞いてみたいですね。