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すっかり日本の騎手となったクリストフ・ルメールの軌跡

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
アメリカ・ベルモント競馬場でのクリストフ・ルメール騎手

アメリカで起きたアクシデント

「充分にチャンスはあると思います」

騎手のクリストフ・ルメールは自分に言い聞かせるようにそう言うと頷いてみせた。

場所はアメリカのニューヨーク。マンハッタンにあるロックフェラーセンターから私の運転する車で彼を拾った時の話だ。向かった先はヤンキースタジアム。ヤンキース対レッドソックスを観戦しようという話になっていた。

しかし、正にその時、事件は起きていた。

この日、遅く、現地の競馬会のホームページで、思いもしない一文が公開された。

“日本のエピカリスが右前脚の歩様に乱れを生じ、消炎剤を2グラム投与された”

エピカリスは美浦・萩原清厩舎の3歳牡馬。日本でデビュー以来ダート戦ばかりを4連勝。勇躍渡ったドバイではG2・UAEダービーを2着に健闘。一旦、帰国後、アメリカのベルモントSに挑戦すべくニューヨークへ飛んでいた。

UAEダービーでのエピカリスとクリストフ・ルメール騎手(右)
UAEダービーでのエピカリスとクリストフ・ルメール騎手(右)

ベルモントSはケンタッキーダービー、プリークネスSからなるアメリカ三冠競走の三冠目。ダート2400メートルのG1レースだ。ダート競馬の本場アメリカのビッグレースへの挑戦ではあったが、同馬に騎乗するクリストフは「充分にチャンスがある」と力強く語っていたわけだ。

しかし、レースを3日後に控えた6月7日の午後、先に記したように歩様を乱すと、前々日、前日と馬場入りできず。ついにはレース当日の朝、競馬場オフィシャルの獣医からドクターストップがかけられ、出走はかなわなくなってしまった。

「とても残念です。でも、脚元の問題では仕方ありません」

クリストフは肩を落としてそう言った。

日本とのつながりはどうして出来たのか?!

1979年5月20日、フランス生まれのフランス人である彼がJRA所属の騎手となったのは2015年3月から。それまでは短期免許での来日は幾度もあったものの、所属はあくまでもフランスでの騎手だった。

父親が障害レースの騎手ということもあり、フランス競馬の聖地シャンティイでクリストフは生まれた。ちなみに彼の生まれた病院は「誰でも使用できる」(クリストフ)ものの、その名も“Hopital de Jockey”(騎手の病院)といった。

幼い頃から父のゴーグルをして、鞭を振り回していたという彼だが、一歩間違えば命を落とすこともある騎手の怖さを知る父親には「(騎手になることを)反対されていた」と言う。

生まれ故郷であるフランス・シャンティイでのクリストフ・ルメール騎手。
生まれ故郷であるフランス・シャンティイでのクリストフ・ルメール騎手。

10歳の時にはシャンティイを離れ、南フランスにあるダックスという街へ家族で引っ越した。しかし、騎手になりたいという気持ちに変化は生じなかった。そこで中学を卒業すると同時に競馬学校に入りたいと父に相談した。

「でも、承知してくれませんでした」

仕方なく高校に通うことになったクリストフだが、騎手を目指す気持ちは強くなる一方。

「だから高校が休みの時には飛行機や電車に乗ってシャンティイまで行き、調教に乗せてもらいました」

16歳の時にはアマチュアライダーの免許も取得。アマチュア騎手の出られるレースにも参戦するようになった。やがてアマチュアとして勝ち鞍をあげるようになると、父が折れた。騎手になることを認めてくれたのだ。

高校を卒業し、念願のプロの騎手となったクリストフは、若い頃からフランスだけでなく、積極的に海外でも騎乗の機会を求めた。ヨーロッパの騎手がヨーロッパ内であちこちの国へ行くのは珍しいことではないが、クリストフはドバイやアメリカ、インドへも飛んだ。

「インドではいくつもG1を勝てました。2日間で9回乗って7勝した時もありました」

そんな活躍がフランスで騎手のエージェントをする男の目にとまった。その男から連絡をもらったクリストフは、帰国後、正式に彼と契約を交わした。そして、そのエージェントが社台ファームの吉田照哉とも繋がりがあったことから、クリストフは日本でも騎乗する機会を得ることになったのだ。

社台ファームの勝負服を着るクリストフ・ルメール騎手。
社台ファームの勝負服を着るクリストフ・ルメール騎手。

来日後の活躍ぶり

短期免許で来日するようになると、安定して実績を積み重ねた。05年には無敗の三冠馬ディープインパクトを有馬記念で退けてみせた。その時、コンビを組んだハーツクライとは、翌06年、ドバイへ飛び、ドバイシーマクラシック(G1)も優勝した。

日本国内での活躍も枚挙に暇がなかった。年間に最大3カ月しか乗ることができないという制約のある短期免許の中で、ウオッカによるジャパンCやリトルアマポーラでのエリザベス女王杯、ジャパンCダート(現チャンピオンズカップ)も2勝するなど、数々のG1を制した。

14年からは外国人騎手に対する通年免許制度も開放されると、翌年、早速これを受験。一発で合格し、15年からはJRAに籍を置く騎手となった。

「短期免許で何度も来日するうちに日本が大好きになりました。通年免許の権利ができたことを聞き、すぐに妻に相談したところ、二つ返事で承諾してくれたので受けることにしたんです」

こうして日本の騎手となったクリストフはすぐに目覚ましい活躍をみせた。1年目からメジャーエンブレムとのコンビでG1・阪神ジュベナイルFを制すると、翌16年にはサトノダイヤモンドと菊花賞、有馬記念を勝つなどし、リーディングジョッキー争いでも全国2位。それもトップの戸崎圭太とは僅か1勝差の186勝を記録してみせた。

さらにこの春の活躍にも目を見張るものがあった。

5月14日にアドマイヤリードを駆ってG1・ヴィクトリアマイルを優勝すると、翌週にはソウルスターリングでオークス(G1)を制覇。さらに翌週にはレイデオロで日本ダービー(G1)も1着。なんと3週連続でG1制覇という偉業を、しかもオークス、ダービー連覇という形でやってのけたのだ。

今春の日本ダービーを制したレイデオロ。
今春の日本ダービーを制したレイデオロ。

「フランスでもオークスとダービーを同じ年に勝ったことがあります(09年)。日本でもそれができて、日本のダービージョッキーにもなることができて、本当に嬉しいです」

今ではすっかり日本の競馬に溶け込んだクリストフ。アメリカでの偉業達成こそ持ち越しになったものの、今後の活躍から目が離せない。

(文中敬称略、撮影=平松さとし)

今春の日本ダービー、表彰式でのクリストフ・ルメール騎手(中央)。
今春の日本ダービー、表彰式でのクリストフ・ルメール騎手(中央)。
ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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