「表現の自由」は大丈夫か~文化芸術活動への助成・補助を巡って
「宮本から君へ」(真利子哲也監督)という映画を見に行ってきた。
文部科学省が所管する独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)が、この映画への助成金を取り消した、と知ったからである。 出演しているピエール瀧さんが麻薬取締法違反で執行猶予付きの有罪判決を受けたことで、芸文振は「国が薬物使用を容認するようなメッセージを発信することになりかねない」と判断した、という報道を見て、いったいどういう映画なのか見に行ったのだ。
芸文振はこれをきっかけに、「公益性の観点」から「不適当と認められる」場合には、今後も助成金内定を取り消すことができるよう、交付要綱を改正した、とも報じられている。
国の姿勢は裁判で示されている
残念ながら、この映画は私の趣味や価値観には合わず、ここで積極的に詳細を紹介しようとは思わない。それでもエンドロールまで見て、この映画は「薬物使用」とは全く関係ない、ということは確認できた。
ピエールさんは、自分の価値観を押し付けて育てた息子の不品行に気づき、叱るつもりが逆襲された父親の役。マッチョだが、最後は主人公に怒鳴られても反論できない情けなさで、彼を賛美したりヒーロー扱いしているわけでもない。
そもそも、彼は公開の法廷で裁かれ、すでに有罪判決が確定している。裁判の経過や結果は大きく報道もされており、違法薬物の使用は許されない、という国の姿勢は十分に示されている。
それに、この映画に助成金が内定していたことは、今回、内定取り消しがになっていたことが報じられて初めて多くの人が知るところとなった。予定通りに交付していれば、なんの騒ぎにもならなかっただろう。「国が薬物使用を容認しているメッセージ」になる云々というのは、芸文振の一人芝居にほかならない、と思う。
映画制作にも連帯責任を求める?
「連帯責任」が好まれる日本では、学生スポーツでも、選手の何人かが競技とは関係ないところで、喫煙や飲酒などの問題を起こした場合でも、当該非行を犯した者だけでなく、チームとして大会への出場を辞退したりする。
芸文振もそれにならったのだろうか?
しかし、映画その他の文化芸術活動の場合で、出演者の中のたった1人が罪を犯すと、その罪と作品はまったく関係なくても、連帯責任として、助成金内定取り消しというペナルティを受けるのは仕方ないという考えは、おかしくないだろうか。制作会社は撮影の現場のみならず、撮影終了後の出演者の私生活にも責任を負わなければならない、のか?
合宿生活を送っている高校球児ではあるまいし……。
芸文振は政府からの出資(541億円)と民間からの寄付金(146億円)を原資とした運用益で、文化芸術活動への助成を行っている。応募のあった活動について、芸術文化振興基金運営委員会の専門家委員に諮り、助成の適否を決定する。平成31年度の助成対象は3月29日付で発表された。『宮本から君へ』は、映画制作(単年度助成)の分野で助成が決まった9本のうちの1本で、交付予定額は1000万円だった。
ピエール瀧さんは、それより2週間余り前の3月12日に関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕され、4月2日に起訴された。同月4日に保釈され、6月18日に東京地裁で執行猶予付きの有罪判決が言い渡され、7月2日までに控訴せず確定した。
「公益性」で補助金取り消しも
10月19日付ハフポストの記事によると、4月に芸文振側から「(ピエールさんの)出演シーンをカットするなど編集できないか」などと打診があったが、制作サイドは「完成した作品の内容は改変できない」として断った。判決確定後の7月10日、口頭で内定取り消しを伝えられ、その後正式な書面が送達された。
映画を見ても、ピエールさんの出番は時間的にはそれほど多いわけではないが、大事な役どころで、登場シーンをカットしたら話が分からなくなる。芸文振の要請は無茶な話で、制作サイドとしては断るしかなかっただろう。
要綱の変更は、本件取り消し決定から3か月余り経った9月27日に行われた。「公益性の観点」から助成金の交付が「不適当と認められる」場合、交付の内定を取り消すことができる、とした。
ということは、今回は、そうした規定もないのに不利益処分がなされたことになる。これもまた、いかがなものか。今からでも、助成の取り消しを撤回して、内定していた金額を払うべきだと思う。
しかも要綱の変更で、「公益性」という、定義がはっきりしない、曖昧な概念によって、専門家の判断で一度は決まった助成が取り消せることなったのも、当局などの圧力や忖度によって、恣意的な判断がなされる事態も起きうるのではないか、という疑念を招く。
10月17日付朝日新聞デジタルの記事によれば、芸文振側は「内定・交付の取り消しは専門委員会、部会、運営委員会を経て理事長の決定となるので懸念には当たらない」としている、という。しかし、その決定プロセスは、きちんと記録が残り、第三者の検証を行い得るものになるのだろうか?
決定の経緯が不透明な「あいトリ」補助金取り消し
そんな心配が涌くのは、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」(あいトレ)の補助金取り消しの一件があるからだ。
「あいトレ」の国際現代美術展開催事業に対する文化庁「文化資源活用推進事業」で交付が内定していた補助金約7800万円について、全額不交付が発表されたのは、同月26日、芸文振の要綱改正の前日だ。
この不交付決定は、日本共産党の本村伸子・衆議院議員が文化庁に、どのような課程で不交付が決まったのか問い合わせたところ、文書で「補助金不交付を決定した審査の議事録はございません」との回答が届いた、という。今なお、そのプロセスは不透明なままだ。
「不自由展」の展示は8月4日以降中止となり、それに抗議した一部外部アーティストも、自ら作品を封鎖したり、展示を変更した。補助金不交付が発表されたのは、検証委員会による調査と中間報告を経て、9月25日に大村秀章愛知県知事が「再開を目指す」と表明した直後の不交付公表だった。
取り消しは早い時期に決まっていた?
公表した萩生田光一・文科相は、愛知県が「展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することがなかった」ために、(1)実現可能な内容になっているか、(2)事業の継続が見込まれるか――について、「文化庁として適正な審査を行うことができなかった」という手続き上のものであると説明した。
しかし、この説明を真に受けることはできない。
補助金は、専門家による審査を経て、4月25日付で採択通知が出されていた。この時点では、「不自由展」への出品作品はまだ決まっていない。実際に補助金審査を行った経験のある専門家によれば、普通、展示物の1つひとつを報告することはなく、審査段階では決まっていないことはよくあるという。
開幕して2日目の8月2日、菅義偉官房長官と柴山昌彦文科相(当時)が閣議後の記者会見で、「従軍慰安婦を象徴する平和の少女像や昭和天皇の御真影を焼く映像も展示され、波紋を呼んでいる」などとして対応を問われ、補助金交付について「事実を確認」して「適切に対応」すると異口同音に述べた。
不交付を発表した萩生田文科相は、「私は指示していない」と明言している。8月中、遅くとも内閣改造が行われた9月11日までに、菅官房長官や柴山氏の指示に基づいて、「不自由展」を再開するなら不交付とする方針は決まっていたのだろう。
さすがに「慰安婦の少女像があるからダメ」「昭和天皇が燃えているからけしからん」と展示の中身を理由にするわけにはいかず、官僚たちが「検閲ではない」とする理屈づけのために知恵を絞り、知事の再開発言直後に、その出鼻をくじくようなタイミングで発表したのではないか。
多くの作家が参加した美術展
「あいトレ」国際現代美術展には、66のアーティストやグループが参加していた。展示が継続できなかったのは、その一部だ。「あいトレ」のポスターなどにも採用され、同美術展の看板でもあったウーゴ・ロンディノーネなども、一次は展示中止を検討していると報じられたが、とどまった。日本人作家の多くは展示を続けた。
会場は、メインの愛知県立芸術文化センターのみならず、名古屋市美術館、豊田市美術館、そのほか2つのエリアで行われた大がかりな催しだった。その多くは予定通り実施され、展示を中止していたアーティストも、「不自由展」再開が決まると、すべて戻ってきた。「不自由展」に関しては、抽選による入場制限がされたが、他の展示に関してはそういうこともなく、観客は好きなだけ展示を鑑賞することができた。
にもかかわらず、政府はイベント全体にペナルティを課した。
テロの加害者に塩を送るのか
「不自由展」に関連して「あいトリ」側に反省すべき点、あるいは今回の出来事を教訓にすべきところがあるのはもちろんだが、展示が継続できなくなった原因は、激しい電凸と「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と京都アニメーションの事件を想起させる脅迫である。検証委員会は、これを「ソフト・テロ」と呼んだ。展示を妨害し、美術展にダメージを与えるのが、この「ソフト・テロ」の目的だろう。文化庁の対応は、テロの被害者を罰し、加害者側に塩を送るようなものではないか。
津田大介芸術監督らも、ある程度の抗議は考えていたようだが、現実はその予想を遙かに超えた。その認識の甘さを指摘するならともかく、津田氏らに事情を聞き、専門家の再審査を行うこともないまま、あたかも事業を継続できなくなる「重大な事実」を分かっていながら隠して補助金を申請したかのような文化庁の判断は、事実にも反し、著しく公正さを欠く、と思う。
しかも、補助金交付の審査を行った専門家による審査委員会には、この不交付決定を諮っていない。前述のように、決定を行ったプロセスは不透明なままだ。
「自分の金でやれ」について
文化庁の対応に対し、ネット上で撤回を求める署名が起こり、10万人以上の賛同を集めた。東京大学や東京藝術大学の有志、美術評論家連盟、その他の団体が抗議や撤回を求める声明を発表。国会でも取り上げられたが、宮田亮平・文化庁長官は「不交付を見直す必要はない」と突っぱねた。
ネット上では、「補助金を当てにするな」「自分の金でやればよい」「税金にたかるな」などといった声も飛び交っている。「表現の自由」は国の規制からの「自由」であり、国が国の方針や考え方に合わない表現に補助を求める権利はない、という物言いも散見される。
当局の発想もこれに近い、と言えるだろう。助成・補助は、禁止・不許可などの強権的な権力作用とは異なり、当局の「裁量」によってなされるものだから、「裁量」によって取り消されるのは問題ない、という考え方だ。
これに対しては、憲法学の泰斗で、表現の自由に関するスペシャリストであった奥平康弘・東大名誉教授(故人)が書いた次の文章を紹介したい。
国が文化芸術支援を行う理由
そもそも、国はなぜ文化芸術活動に助成・補助を行うのか。
戦後まもなく日本の文化行政は、戦前の反省もあり、控えめなものだった。しかし、高度経済成長期を経て、豊かな時代を迎えると、物質だけではなく心の豊かさを求め始める人々も増えていく。1980年代になると、各地の自治体が次々に美術館やホールなどを建設した。ハコモノ行政などと批判もされたが、こうした文化施設が、人々が文化芸術に接する機会を増やしたことは間違いないだろう。
2001(平成13)年になって、文化芸術振興基本法が制定され、文化芸術振興における国や地方公共団体の責務が定められた。同法第一条では、その目的が次のように謳われた。
そして、第2条の「基本理念」の筆頭にはこう書かれている。
この法律は、2017(平成29)年に改正され、文化芸術基本法と改められた。その際、前文に文化芸術の多様性と表現の自由の大切さを意識した、次のようなフレーズが入った。
権力の恣意的な判断が入り込まないように
国民の価値観がますます多様な今の社会にあっては、文化芸術活動の表現もさまざまである。そんな中、当局や声の大きい人たちの好みや価値観に沿うものは助成・補助がなされて優遇され、そうでないものは冷遇する、という差別的な対応をとるのは、日本の文化政策の基本法に沿うものとは言えないだろう。
財源には限りがあり、すべての希望者や団体に支援をするわけにはいかないので、当然、交付先などは選定しなければならない。ただ、それは専門家による審査に任せる。政治家や行政の関与は仕組み作りにとどめることで、時の権力者の恣意的な判断が入り込まないようにして公正性を担保するのが、文化政策の基本だ。
その基本が崩された、として懸念を招いているのが「あいトリ」の補助金取り消しであり、基本が崩されるのではないかとの懸念を招いているのが芸文振の助成交付の要綱変更だ。
表現の自由を考えるうえで、この2つの出来事を軽く見ることはできない。とりわけ「あいトレ」に関しては、政府の恣意的な判断が文化行政を歪める不安を払拭するためにも、補助金取り消しの経緯を明らかにすると共に、愛知県や津田芸術監督や現場のスタッフに事情を聞いて、判断を再考するよう求めたい。日本の文化芸術の未来のために。