半沢直樹でさえ驚愕? 本能寺の変だけじゃない、裏切りが得意だった武将5選
かつて高視聴率をマークしたテレビドラマ「半沢直樹」。なんといっても見どころは、裏切った上司や同僚を追い詰め、謝罪させるシーンだろう。戦国時代は、現代以上に裏切りが盛んだった。今回は、裏切りが得意だった戦国武将を取り上げることにしよう。
■穴山梅雪(1541~82)
穴山梅雪は武田氏の重臣として、信玄に重用された。信玄に従って、数多くの戦いを転戦し、ついには駿河江尻城(静岡市清水区)主にまで上り詰めた。信玄の死後は、子の勝頼に仕えた。
天正10年(1582)になると、武田氏の敗勢は濃くなっていった。すると、梅雪は徳川家康から武田氏の名跡の継承、甲斐一国を与えると条件を提示され、勝頼を裏切った(同年3月に武田氏は滅亡)。勝頼にとっては、痛恨の裏切りだったに違いない。
しかし、同年6月に本能寺の変が勃発すると、梅雪は家康とともに畿内を脱出しようとしたが、途中の宇治田原で土民により殺害されたという(諸説あり)。因果応報とは、このことである。
■松永久秀(?~1577)
松永久秀はもともと織田信長と敵対していたが、永禄11年(1568)頃から与力として友好関係を築いた。しかし、その後の両者の関係は、徐々に悪化していった。
元亀3年(1572)以降、久秀は信長と距離を置き、反信長勢力の朝倉義景、武田信玄、本願寺に接近した。翌年、信長と足利義昭が決裂すると、久秀も信長に反旗を翻した。しかし、信長が久秀の多聞山城を攻撃すると、久秀は降伏。信長の軍門に降ったのである。その後、久秀は再び信長の配下となった。
天正5年(1577)、久秀は再び信長に反旗を翻した。しかし、ほどなく久秀は信長の軍勢に敗北。信貴山城で爆死したという。久秀は信長を裏切ったものの、実は得意でもなかったようだ。
■斎藤道三(1494~1556)
斎藤道三といえば、裏切りの積み重ねでのし上がった男である。大永7年(1527)、美濃の土岐頼芸に仕えていた道三は、頼芸のライバル政頼を急襲して越前へ放逐し、頼芸の信任を得た。さらに、頼芸の配下にあった長井長弘を殺害し、土岐家中で重用されるようになった。
天文11年(1542)、道三は主君の頼芸を追放し、ついに美濃を支配した。天文23年(1554)には、家督を子の義龍に譲った。ところが、2年後の弘治2年(1556)、道三は義龍に裏切られ、長良川の戦いで敗死。無念の最期だった。やはり、因果応報といえるだろう。
■宇喜多直家(1529~1581)
宇喜多直家は、備前の領主をたびたび裏切って台頭した。まず、直家は舅の中山備中守を酒宴に乗じて殺害した。これにより直家は、浦上宗景に重用される。その後、遠藤河内守・修理の2人に命じて、酒宴に興じていた備中の三村家親を射殺させた。
直家は周辺の領主と婚姻関係を結んで安心させ、その後、突如として裏切る手法を用いた。金川城主・松田元賢、石山城主・金光宗高、三星城主・後藤勝基なども直家に裏切られた面々である。
変わったところでは、直家が龍口城主・穝所(さいしょ)氏を殺害する際、男色の相手として小姓の岡清三郎を送り込み、安心させて殺したという。誠に酷い話である。
■明智光秀(?~1582)
明智光秀といえば、裏切りとは縁のない印象があるが、決してそうではない。フロイスの『日本史』には、「裏切りや密会を好む」、「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」と書かれている。
その光秀の最大の裏切りこそが、天正10年(1582)6月の本能寺の変である。織田信長は予想すらせず、無念にも光秀に討たれた。光秀は謀反に成功したが、味方になってくれると思っていた細川幽斎・忠興父子、筒井順慶らに裏切られて、最後は羽柴(豊臣)秀吉に討たれてしまった。やはり、因果応報である。
◎まとめ
戦国時代は裏切りの連続であり、その打算的な態度はむしろ当然でもあった。「甘ちゃん」では、通用しなかったのである。とはいえ、長い目で見れば失敗することも多く、やはり誠実さが重要ということになろうか。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】