【「麒麟がくる」コラム】ついに登場した浅井長政。近江浅井氏の出自や歴史とは!
■江北の名門・浅井氏
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に浅井(あざい)長政が登場し、いささかネット上ではざわつき気味だ。視聴者の期待ぶりがうかがえる。
とはいえ、浅井氏と言っても、ピンとこない人も多いだろう。そこで、今回は浅井氏の出自や長政の前半生の一端を取り上げることにしよう。
■浅井氏の出自など
浅井氏の出自に関しては、公家の三条公綱落胤説や物部守屋後胤説などが提示されている。しかし、いずれの説も信用しがたい側面があり、不明であるといえよう。たしかに言えることは、近江国京極氏の被官人であり、浅井郡丁野郷(滋賀県長浜市)を本拠としていたことである。
浅井氏の中興の祖と言うべき人物は、亮政(すけまさ)である。大永3年(1523)に主家である京極氏の後継者問題がクローズアップされると、亮政は他の有力な土豪層と画策し、京極高清の長男・高広を推戴した。この頃から浅井氏は、有力な存在として勢力を伸長しつつあった。
天文3年(1534)、亮政は高清・高広父子を自らの居城である小谷(おだに)城(滋賀県長浜市)に招くと、他の重臣らも加わり饗宴を行った。この饗宴が契機となり、亮政は京極氏を囲い込むことに成功し、権力を掌中に収めることとなったのだ。
■浅井氏と六角氏の戦い
高清の死後、高広は亮政との関係を絶ち、同じ近江国の守護六角氏のもとに走った。以後、京極氏を支援する六角氏と亮政は交戦状態に入り、たびたび合戦に及ぶことになる。しかし、混乱の最中の天文11年(1542)、亮政は小谷城で没した。
亮政の後継者は、子の久政であった。久政は六角氏や京極高広との合戦に敗れるなど、あまり目立った活躍をしていない。そのような影響もあったのか、永禄3年(1560)になると、家督を子の長政に譲っている。
長政が誕生したのは天文14年(1545)のことで、父は久政である。幼名は猿夜叉で、のちに新九郎を名乗り、備前守と称した。久政は後見として、長政を支えた。
■家督を継承した長政
わずか16才で家督を継いだ長政は、当初六角義賢の名前の一字「賢」を与えられ、賢政と名乗っていた。自身の妻も、義賢の被官人である平井定武の娘を娶った。これは政略結婚であり、浅井氏と六角氏の紐帯を強めるためのものだった。
いずれにしても、浅井氏の状況が不利であったため、婚姻を通じて和睦を結んだのである。被官人の娘との結婚であるところを見ると、長政は六角氏から一段低く見られていたのかもしれない。
しかし、長政は勢いを盛り返すと、永禄3年(1560)に義賢を破り、徐々に勢力基盤を広げることに成功した。永禄末年頃には、江北三郡と称せられる伊香・浅井・坂田の三郡を中心に、その周辺にも勢威を及ぼした。
■織田信長との関係
長政は、基本的に越前国の朝倉氏と友好関係を築くようにした。ところが、やがて尾張国の織田信長が勢力を伸張すると、長政は信長の妹・お市を娶り、新たに関係を築くことになる。婚姻の時期については諸説あるが、だいたい永禄10年(1567)から翌年にかけてのことと言われている。
長政の「長」の一字は、信長に与えられたと指摘されている。その後、長政が平井定武の娘と離縁したことは、いうまでもない。これにより長政は、六角氏との関係を断ったのだ。
こうして長政は織田家と親交を結んだわけであるが、その後のことはお楽しみにしておこう。