松永久秀を爆死に追い込んだのは、筒井氏家臣の森好之の智略にあった
誰もが欲しいのが「先見の明」であるが、なかなか得難い才能である。天正5年(1577)10月、梟雄と恐れられた松永久秀が織田信長に敗れ、信貴山城(奈良県平群町)で爆死した。
久秀を死に追い込んだのは、先見の明がある森好之の智略にあったといわれているが、どういう人物なのか考えてみよう。
好之は大和の筒井氏の家臣で、筒井順慶と養子の定次を支えた重臣である。松倉勝重・重政父子、島清興(左近)とともに、「筒井家三老臣」と称された。好之の生没年は不詳であるが、その妻は筒井順昭の妹だった。また、嫡男は好高、従弟に好久がいた。
好之が筒井氏に重用された理由は、戦場における咄嗟の鋭い判断力、そして先見性にあったといわれている。永禄3年(1560)頃、順慶は大和に侵攻してきた久秀を迎え撃つべく、法隆寺(奈良県斑鳩町)に陣を置いた。久秀は一瞬の隙をつき、順慶、好之の本陣に攻め込んだ。
さすがの順慶も久秀の猛攻に死を覚悟したといわれているが、好之は順慶を必死に守り続けた。そして、敵兵の攻撃が弱くなった頃を見計らって、順慶を無事に逃がすことに成功したのである。もし、好之がいなければ、順慶が討ち死にしていた可能性は大いにあろう。
とはいえ、同年には久秀の軍勢が筒井城(奈良県大和郡山市)に攻め込み、落城した。その後も筒井氏は、久秀と一進一退の攻防を繰り返した。天正4年(1576)、織田信長は順慶の大和支配を認め、のちに郡山城(奈良県大和郡山市)を築城し、居城としたのである。
その翌年、久秀は信長に叛旗を翻し、居城の信貴山城(奈良県平群町)に籠った。ところが、好之は久秀が謀反を起こすと予想し、従弟の好久を久秀のもとに送り込んでいた。やがて、織田方の総攻撃が開始されると、久秀が苦境に陥った時点で裏切った。
好之は筒井氏の兵を信貴山城内に手引きしたので、たちまち城内は大混乱に陥った。その結果、久秀はすっかり戦意を失ったのである。織田方の佐久間信盛は、久秀に茶の名器として知られる「平蜘蛛」を差し出すよう命じた。
しかし、その要求には応じず、爆死したといわれている(諸説あり)。好之は先見性を生かし、信貴山城の落城に貢献したというエピソードである。