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【給付金誤振込み事件】阿武町が行なった受取人の氏名公表はマズイ選択だった

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
阿武町役場(Googleストリートビューより)

■はじめに

 先日、阿武町が、四千数百万円あまりを引出して返還を拒否し、行方不明になっている24歳男性(以下では、「A氏」とする)に対して、不当利得返還請求の訴えを起こし、公金の回収に動き出しました。

 その後、町はこれまでの経過を説明した文章を町の広報誌「あぶ」に掲載し、ホームページで公開しました(現時点では、アクセスが集中しているためか、つながらない)。この一連の措置は説明責任のある町としては当然のことですが、気になったのは町がA氏の住所と氏名をネットで一般公開したことです。それは、次の二つの点で問題だと思われます。

■A氏の生命身体を危険にさらしたことにはならないか

 A氏はすでに振り込まれた口座から誤振込みになった金額をほぼ全額引き出し、一部は他の口座に移したことが判明しているものの、その他の金銭についてはどのような形になっているのかが現時点では不明です。したがって、現在行方の分からないA氏は、可能性としては何千万円という大金を持ちながら移動している可能性があります。そのような状況にあるA氏について、その氏名を公表することは妥当なのでしょうか。

 すでにA氏の実名はSNSで拡散されており、彼の写真や身体的特徴などが判明するのも時間の問題かと思われます。つまり、何千万円もの不当な大金を彼が持ち歩いているかもしれないということを、阿武町は社会に公表したことになります。回収に焦る町としては、A氏の氏名等を公表することによって所在等が判明し、返還を促し、回収が進むことを期待したことは理解できますが、そのことでA氏の生命身体を危険にさらしたということにはならないのでしょうか。第一に懸念するのはこのことです。

■氏名公表は名誉毀損行為にあたらないか

 次に、実名を挙げて不当に得た公金の返還を拒否しているという事実を公表することは、A氏に対する名誉毀損にならないのでしょうか。

 実は、日本の名誉毀損の法理は、戦前の厳しい言論統制を引き継いだもので、具体的に言及された事実が真実であろうとなかろうと、相手の社会的地位を貶める可能性があれば名誉毀損になるとするのが原則です。つまり、虚名を暴いたり、不正を正したりする目的があっても、言論より相手の名誉を重く見るのが原則なのです(刑法230条)。しかし、これではさすがに憲法が保障する表現の自由と矛盾するので、名誉毀損とされる行為が、(1)公共の事実に関するものであり、(2)表現行為が公益を図るためであった場合には、(3)真実であることの証明があれば、名誉毀損とはならないとして、表現の自由に対する救済策が設けられています(刑法230条の2)。

 今回の阿武町が行なったA氏の氏名公表はどうでしょうか。

 まず、公共の利害に関する事実とは、それが一般多数の人の利害に関係するということです。問題となっている金銭は誤って振り込まれた公金であり、彼がそれを自由に引き出して行方をくらまし、その返還を拒否しているという事実は、町民全体の利害に関係する事実ですから、公共性を帯びる事実であることは間違いありません。

 では、A氏の氏名公表は公益を図る目的で行なわれたといえるのか。実はここが問題だと思われます。

 公益を図る目的とは、一般に私利私欲を超えて社会全体の利益を図るためということです。もちろん、他の動機があっても、それが主たる動機であれば構いません。過去の裁判例を見てみると、被害弁償を受けるために窃盗犯人の氏名を公表したものや、一般読者の興味をそそるために売春の事実を公表したもの、事実の公表が被害者に対する交渉を有利に進めるためであったものなどにおいて、自己の利益を擁護するという私的な意図の方が勝っていたとして公益目的が否定されています。

 阿武町の場合は、このような点でまさに阿武町の都合が公表の動機の大きな部分を占めているのではないかが問題になるでしょう。

 なお、公共性と公益性が認められれば、事実の真実性が問題になりますが、本件ではこれは問題がありません。しかし、以上のような点で、阿武町の行なった行為には法的な問題はなかったと100%いえるかといえば、かならずしもそうではなく議論の余地はあるように思われます。

■まとめ

 すでに別稿(下記)で述べたように、振込みという仕組みは、資金を安全かつ迅速に移動させる社会にとって不可欠な手段です。毎日、日本だけではなく世界中で膨大な金額と数の資金移動が処理されています。銀行が事前にいちいちそのすべてが正しいものかどうかをチェックすることは不可能ですから、いったん振り込まれた金銭については受取人に一応預金債権(引き出す権利)は認めて、誤振込みがあった場合には「組戻し」(銀行間でのリセット)を行なうか、振込人が受取人を相手取って不当利得返還請求の民事裁判を起こすかという事後的な是正手段を取るのが原則です。

 もちろん組戻しには当事者の同意が必要ですし、裁判を起こして勝訴しても相手に財産がなければ回収は絶望的になります。しかし、それはやむをえないといわざるをえません(そのようなケースは残念ながらよくあることです)。

 ただし、預金債権はあっても引出しの刑法的な評価は別であって、(銀行が被害者である)詐欺や窃盗などの犯罪が成立するというのが刑事判例です。しかし、預金債権が有効である以上、引出しが違法性を帯びるというのは矛盾であり、そのような考えに反対する学説は有力です。何よりも、それが犯罪だとしても、そのことは金銭の回収には直結しないのです。

 A氏の行動が道徳的に問題があるというのはそのとおりだと思いますし、阿武町の行為にも同情を禁じえませんが、これが許されるならば、今後、自治体に多額の金銭債務があり、その履行を理由なく拒んでいる者についてはその氏名を公表しても構わないということにもなりかねません。阿武町のケースは、いわば法の限界ともいえる事例ではないかと思います。(了)

【参考】

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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