【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時連が時房に改名した大爆笑の理由とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、北条時連が時房に改名していた。その改名した事情について、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時連と名乗る
安元元年(1175)、北条時連(ときつら)は時政の子として誕生した。母は足立遠元の娘なので、政子、義時の異母弟になる。
文治5年(1189)5月、時連は15歳のときに元服をした。元服式のときには、名立たる御家人たちが祝うために参上した。もちろん、源頼朝も参列した。
このとき加冠を任されたのは、三浦義連だった。加冠とは成人式のようなもので、元服する男子は髪を結って衣服を改め、幼名を止めて実名を授けられた。式のときに冠を着けたので、加冠というのである。
義連(生没年不祥)は義明の子で、義澄の弟でもあった。本拠が佐原城(神奈川県横須賀市)だったので、佐原義連と称されることもある。
このとき義連は加冠を担当するとともに、諱の「連」を時連に与えて名乗らせたのである。その後、ドラマでもあったとおり、時連は源頼家に近侍し、蹴鞠の相手をするなどした。
■時連の改名
時連が時房に改名した経緯は、『吾妻鏡』建仁2年(1202)6月25日条に書かれている。以下、時連が時房に名を改めた理由を探ってみることにしよう。
この日も頼家は近習を集めて、蹴鞠に興じていた。もちろん時連も参加していた。蹴鞠の会が終わると、酒宴の場が設けられ、舞を舞う女性も招き寄せられていた。
実は、蹴鞠の会と酒宴には、頼家の蹴鞠の師匠である平知康も参加していた。知康が時連に言うには、「あなた(知康)は身なりや立ち振る舞いといい、申し分がない人物です。ただ、時連という名は甚だ下劣です」とのことだった。
理由は、連という字が「貫」つまり銭貨に通じるからだった。そして、改名を急ぐように勧めたのである。頼家の勧めもあったので、時連は改名に応じることにしたという。
『吾妻鏡』建仁2年(1202)9月10日条には、突如として「北条五郎時房」としてあらわれる。なぜ「房」の字が選ばれたのか、詳しい経緯は書かれていない。
■まとめ
しかし、この程度の理由で改名とは笑うしかない。連の字が良くないのなら、義連も名を変えなくてはならない。また、房の字を選んだ理由も明確ではない。
このように、『吾妻鏡』には不可解な記述があるので、これがまた面白いのかもしれない。