【光る君へ】源倫子と源明子。運命の分かれ道はどこにあったのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、東京都知事選の速報で中止になった。そこで、ドラマの前半部分で、注目された場面を取り上げて、詳しく解説することにしよう。取り上げるのは、源倫子と源明子である。
源倫子が左大臣を務めた源雅信の娘として誕生したのは、康保元年(964)のことである。永延元年(987)、倫子は藤原道長の妻となった。倫子は、道長より2歳年上の24歳(数え歳)だった。当時としては、やや結婚が遅かったといえよう。
当時、道長の将来性は、まだ量りかねるところがあった。雅信は倫子の結婚相手にふさわしいと思う一方で、一条天皇の后にしたいと思っていたという。ただ、道長の父の兼家との関係を考慮すれば、2人の結婚は、決して悪くない話だったといえよう。
結婚後、道長と倫子はたくさんの子に恵まれた。長男の頼通は摂政、関白、太政大臣を務め、五男の教通も関白、太政大臣を務めた。娘の彰子は一条天皇の中宮に、同じく女の妍子は三条天皇の中宮に、同じく威子は後一条天皇の中宮になったのである。
一方の明子が左大臣を務めた源高明の娘として誕生したのは、康保2年(965)のことである。永延2年(988)、道長は明子を妻としたが、それはもちろん側室としてである。正室は、あくまで倫子だった。
高明は醍醐天皇の皇子として誕生したが、臣籍に下り源姓を与えられた。その後、高明は順調に出世し、正二位・左大臣に叙位・任官されたのである。しかし、安和の変により、高明は没落した。
村上天皇の皇子・為平親王の后は、高明の娘だった。康保4年(967)、藤原氏は守平親王(のちの円融天皇)を皇太子に据えたが、筆頭大臣を舅とする為平親王の存在に大きな不安を抱いた。
そこで、藤原氏は高明を失脚させ、同時に為平親王も排除しようと考えた。安和2年(969)3月、源満仲の密告により、高明が守平親王の廃立を画策したとされ、大宰員外帥に左遷されたのである。
事件後、右大臣の藤原師尹が左大臣に昇進するなどし、藤原氏の体制が盤石になった。つまり、いかに藤原氏の陰謀だったとはいえ、明子は「謀叛人の娘」というレッテルが貼られたことになろう。
明子は男子を産んだが、誰も摂政、関白にならなかった(頼宗は右大臣に昇進)。娘も天皇に入内しなかった。これだけ、倫子と差が開いたのは、明子の父・高明の影響があったのではないかと考えられる。