「埋めてやろうと思った」 善光寺の尊者像持ち去り、窃盗罪に問えない可能性も
長野市の善光寺から「びんずる尊者像」を持ち去ったとして窃盗の容疑で逮捕された男が、警察の取調べに「あんなものがあったら地震や事件が起きる」「どこかに埋めてやろうと思った」などと供述しているという。
どのような事件?
4月5日早朝の善光寺の防犯カメラには、男が毛布のようなもので包んだ尊者像を1人で抱え、車に積み込んで持ち去る姿が撮影されていた。警察が緊急配備を行い、事件から2時間半後に松本市内でこの車や車内の尊者像を発見し、「びんずる尊者像に恨みがあった」と語る男を逮捕した。
男の母親の話では、男は1年前に仕事を辞め、ストレスを抱え、宗教に傾倒していたような感じがあったとのことで、善光寺職員の話でも、事件当日の朝に男が職員に「びんずる尊者像」のことを「この像があるからたたりがある」などと述べていたという。
あらかじめ転売ルートを確保できていなければ転売困難な著名な像だし、「恨みがあった」という男の供述からも、転売目的というよりも、むしろ何らかの強い思い込みから犯行に及んだ可能性が高い。しかも、職員とのやり取りからすると、自分だけのものにして拝むためということでもなさそうだ。
「不法領得の意思」と「責任能力」が問題
ただ、計画性こそ認められるものの、男の「どこかに埋めてやろうと思った」という供述が事実であり、最初から隠したり壊したり燃やしたりする目的だったのであれば、窃盗罪の成立要件である「不法領得の意思」がないということで、窃盗罪に問えない可能性が出てくる。
窃盗罪については「不法領得の意思」、すなわち「権利者を排除して他人の物を自己の所有物としてその経済的用法に従い利用処分する意思」まで必要だというのが裁判所の立場だからだ。
自分や家族で使ったり、売り払ったりするのではなく、尊者像が諸悪の根源だという強い思い込みから埋めて隠してしまおうと考えて犯行に及んだということであれば、「経済的用法に従い利用処分する意思」に疑義があり、窃盗罪は成立しないという方向に傾く。
最高裁の前身である大審院が大正4年(1915年)に「不法領得の意思」を定義し、窃盗罪の成立を否定した事件も、小学校の教諭が校長を失脚させるため、学校保管の教育勅語謄本を持ち去り、教室の天井裏に隠したというケースだった。
男が尊者像を実際に埋めたり壊したりしていれば器物損壊罪に問えるものの、6日に善光寺に戻された尊者像は無傷だった。未遂を処罰する規定がないから、この罪も適用できそうにない。
ただ、尊者像を持ち去る目的で善光寺の本堂内に不法に立ち入ったということで、少なくとも建造物侵入罪には問えるだろう。それでも、男は「巌流島に埋めてやる」とも供述しているというから、男の動機が意味不明で、了解不可能なものということになれば、「責任能力」の有無や程度も問題になる。
男がいつからどのような犯行を計画しており、いかなる経緯で事件に至ったのか、持ち去ったあとは具体的にどこで何をしようと考えていたのかなど、今後の捜査の推移が注目される。(了)