樋口尚文の千夜千本 第193夜 『ドキュメンタリーの舞台裏』(大島新 著)
ドキュメンタリーの可能性と危うさを実践的に思考する
思えば劇映画を創るためのテキストはあまた著されてきたが、ドキュメンタリーを創るための基礎的で、かつ実践的な書物というのはほとんど見当たらないのではないか(ドキュメンタリストが自作を語る書物はあっても)。このたび『なぜ君は総理大臣になれないのか』の大島新監督が上梓した『ドキュメンタリーの舞台裏』(文藝春秋)の第一章「ドキュメンタリー制作の実際」では、アマチュアの読者が読んでもとてもわかりやすい書き方でドキュメンタリー制作工程が解説されているが、ここに記されているドキュメンタリストとして直面する課題や、それに対する際に注意を払うべき点についての言及は、とても平明に書かれているが極めて重要なことばかりである。
頭のいい映像学徒なら、このベーシックな内容は自明のことと思うかもしれないが、しかし理屈先にありきではなく、数々の実作における試行錯誤を経て筆者がしかと体得したドキュメンタリーの要諦というのは、やはり重みが違うのである。まずはこの第一章を、プロフェッショナルを目指す若き映像学徒はもとより、ドキュメンタリーに興味を持つ一般の視聴者、観客にも広く読んでもらいたい。
そして第2章から第5章までは、そういうベーシックな理念を手にした大島新が、テレビ局の社員として、フリーランスのディレクターとして、自ら興した会社のディレクターおよびプロデューサーとして、さらに映画としてのドキュメンタリーに挑んだ監督として、いかなる試練や失敗に向き合い、いかなる成功をおさめてきたのか、というクロニクルなのだが、大島の飾らない文章が何かを盛るわけでもなく、ひたすら素朴に謙虚に自らの歩みを見つめ直していることに好感が持てる。つまり、大島は自らの信条や理念、作り手としての生理に忠実にありつつも、とにかく「反省」するのである。
人の武勇伝というのは全くためにならないが、「反省」が通奏低音である本書は、ドキュメンタリストとして人や事象に出会い、それを自らの知見と感覚をもとに作品として記録・構成する営みが、具体的にどういうシーンで迷いや躊躇いにぶつかるかという「ドキュメント」なのである。まさに第一章に掲げられた理想がどうして躓くのか、通貫できないのかと悩む瞬間の言及は、ひじょうに興味深く、映像学徒ならもっともコヤシになるところだ。
そして特別編「先人たち」と名づけられた章では、大島が敬愛するドキュメンタリストの先達たち(是枝裕和、森達也、原一男)について、いったいその作品の何に驚き、どう鼓舞されたのかが記されていて興味深いのだが、こうした鬼才たちの前にまず大島新には父君の世界的巨匠・大島渚が屹立している。これは余人には推しはかり難いヘビーな重しであるわけだが、あまつさえ大島渚は劇映画だけでなくドキュメンタリストとしても勇名を馳せた鬼才である。そんな境遇の大島新が、存命中に自作を観た父から授かった感想、そして没後に思い出す父の言葉を率直に受け止めながら、作り手としての姿勢を研ぎ澄まそうとするくだりは本書の最も美しい地点である。