オーストラリアで修行する一人の若手騎手。彼の胸に刺さったあるベテラン騎手が発した言葉とは……
捨て切れなかった騎手への夢
富田暁が生まれたのは1996年12月11日だからもう少しで23歳になる。茨城県で父・利勝、母・みゆきの下、6歳上の兄と共に育てられた。
「父が騎手になりたがっていたくらい競馬好きでしたが、僕はJリーガーになりたいと思っていました」
この言葉からも分かるように幼少時はサッカーに興じていたが、小学1年生の時の文集には「大きくなったら騎手になりたい」、6年生の時の卒業文集では「将来はサッカー選手か騎手になりたい」と書いていたという。
実際、中学3年で進路を決める時には競馬学校に行くか迷った。しかし……。
「迷っているようでは駄目だと思い、高校に進学しました」
高校では引き続きサッカーに打ち込んだが、騎手への想いは断ち切れなかった。そこで1年生の時に「駄目元で」(本人)競馬学校を受験した。結果はある意味、思った通り不合格になった。
「でも諦め切れず、高校の先生に相談しました」
すると知人を通して調教師の中野栄治を紹介してもらえた。
「中野先生には19万人のファンの前で制したアイネスフウジンの日本ダービーの話などを伺いました」
ますますジョッキーになりたいという気持ちが強くなった。そこで、乗馬を始めた方が良いか?と聞くと、思わぬ答えが返ってきた。
「『変な癖がつくよりもまずは体力をつけなさい』と言われました」
そこで“ジョッキーになる事を前提”に、サッカー部を続けた。
「サッカー部の顧問や仲間が皆、理解してくれて、そういう形で続行させてもらえました」
その結果、2年生の時の2度目の受験で見事に難関を突破。競馬学校生になった。
「ただ、馬に乗った事がないまま競馬学校生になったので、授業についていくのは大変でした。成績はいつも最下位で、騎乗時に恐怖心も出たため面白くない時期が続き、留年を覚悟しました」
しかし「いつか大きな舞台で活躍したい」という夢だけは失わなかった。そのため、留年をする事もなく、3年で卒業。2017年3月、無事にジョッキーデビューを果たした。
胸に刺さったある先輩騎手のひと言
栗東・木原一良厩舎からデビューを果たした富田。3人の恩人がいた。
1人目は師匠の木原。
「優しいけど、元騎手ならではの心構えも説いてくださるし、指導に関しては厳しくしていただけます」
そんな木原から言われて、今でも心に刻んでいる言葉があると言う。
「『乗せてもらえるのは沢山の人達のお陰。感謝を忘れないようにしなさい』と言われました。これは常に心掛けるようにしています」
また、厩舎には元騎手で現在は調教師となった武英智が調教助手として在籍していた。彼からも沢山の事を教わったと続ける。
「馬乗りの基礎から教わりました。デビュー前から現在まで、とにかく事あるごとに時に厳しく、でも優しく、気にかけてくださっています」
そしてもう一人、現在の富田に大きな影響を与えた先輩がいた。「学校生の厩舎実習の際に、競馬場で1日騎手付き研修をさせていただいた」相手が、四位洋文だった。
四位は時に態度で、時に言葉で大切な事を教えてくれたと言う。
ある日の競馬場ではこんな事があった。富田が使っているヘルメットを床に置いた時、四位に言われた。
「『頭を守ってくれる大切な道具を床に置いてはいけない』と言われました」
以来、富田は道具を大切に扱うようになった。
更にこんな事もあったと続ける。
「デビュー前に『スーパースターになりたいです!』って話しました」
若い富田のその言葉をほとんどの人が鼻で笑って相手にしなかった。しかし、四位は違った。
「四位さんは『今ガムシャラに頑張ればスーパースターになれるよ』と言ってくれました」
この言葉が胸に刺さった。それはつまり“今ガムシャラに頑張らなければスーパースターにはなれない”という意味だともとらえ、その教えを守ると心に誓った。
ガムシャラに頑張るため、赤道の向こうを選択
こうしてデビューすると1年目の17年は17勝。2年目となった18年には28勝を挙げた。
「まだまだ技術的にも未熟である事を思うとよくこれだけ勝たせてもらえました。木原先生を始め、沢山の人が助けてくださった事に感謝しかありません。同時にもっと期待に応えられるようにならないと、という思いが日に日に強くなっていきました」
では、もっと期待に応えられるようになるためにはどうすれば良いか?と考えた時、2年目のある出来事が思い出された。
「若手騎手招待競走でフランスで乗る機会がありました。元々海外の競馬には興味があったのですが、実際に行ってみて日本とは違う競馬に引き込まれました」
日常のルーティンを外れた世界を経験する事で得られるモノの多さに気付いた。だから、海外で修業をしたい、するべきだと考えるようになった。
「沢山の方に相談させていただいた結果、アメリカが良いのでは?という話になりました。それで今年の頭から動いていたのですが、なかなかビザが下りず、時間だけが過ぎてしまいました」
絶念する気も妥協する気もなかったが、話が進まないのでは意味がない。ならば、と方向転換を図り、他のカードをめくる事にした。
「短期免許で来日していたダミアン・レーンに相談すると、『僕の国(オーストラリア)なら協力出来る』と言ってもらえました」
そこで矛先を太平洋の先から赤道の向こうへと換えた。するとその後の話はとんとん拍子に進んだ。8月10日に日本を発つと12日にはもう調教に騎乗していた。
「フレミントン競馬場で、風も強くてモノ凄く寒い日でした」
真逆の季節と通じない言葉に異国を感じた。それでも17日には現地で初騎乗を果たすと、なんとそのレースを優勝。初騎乗初勝利の離れ業をやってのけると、富田は皆から親しみを込めて「トミー」と呼ばれるようになった。
「好スタートで好位につけて、最後はただ一所懸命に追ったら勝てました。正直、実感は湧かず『あれ?勝っちゃった?!』という感じでした」
四位に勝利を報告すると「良かったけど、単に勝った負けたではなく、今後も努力を続ける事の方が大切」とたしなめられた。実際、安心したわけではないがその後は思うように結果を出せない日々が続いた。2勝目は約2カ月後の10月18日。自らの運転で3時間以上をかけて移動して辿り着いたワーナンブール競馬場で、綺麗に馬群を捌くと、先頭でゴールへ飛び込んだ。
「この時は考えていた通りに乗れて勝てたので“勝った!!”という実感がありました。馬の力で勝たせてもらえた初勝利の時より、むしろ嬉しかったです」
その後も毎朝の調教騎乗はもちろん、日中は競馬がなければトレーニングや、英会話学校での受講も欠かさなかった。こうして異国で過ごす中、1日に2勝する日もあったかと思えば、騎乗停止処分となる事もあった。
「それらの全てを良い経験と考えて、今後に生かしていきたいです」
スーパースターになるためにガムシャラに頑張る日はまだ続く。トミーは帰国予定を立てていない。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)