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母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える

中野円佳東京大学特任助教
(写真:アフロ)

Twitter「#あたしおかあさんだけど」で対抗

絵本作家ののぶみさんが、おかあさんといっしょの歌のお兄さんだった横山だいすけさんに提供した曲「あたしおかあさんだから」にTwitterなどで子育て中の母親父親、そして独身女性などからも批判が集まり、炎上しているようです。詳しくはこちらのtogetterなどをご覧ください。

歌詞を見ると、母親が子どもを産み育てるうえで、様々なことを我慢していることを書き連ね、でも「おかあさんになれてよかった」とまとめています。批判の主なポイントは、【1】そんなに母親たちは我慢や自己犠牲ばかりしていないというもの、【2】これまでののぶみさんの絵本の作風などとも相まって、母親だけに我慢や自己犠牲を礼賛しているようで「呪い」に感じられるというもの、【3】母親になる前の女性のこともばかにしているように聞こえるというもの の3点に分けられそうです。

このうち、【1】についてはTwitter上で、「#あたしおかあさんだけど 」や「おとうさんだから」など様々な親の在り方が発信され、かえって従来型の規範に捉われない人たちがたくさん居て発信してくれる世の中に「いい時代になってきた」感を覚えました。

ただ、【2】については、昨年オムツのCMで炎上したデジャヴ感があり、「またこの手の炎上か」という感覚もあります。のぶみさんは実際のお母さんたちの声を集めて作詞したと発信されていますが、どうしてこうやってある種のマーケティングリサーチをしたはずのものがここまで批判されてしまうのでしょうか。

どうして現実を描いても「炎上」するのか

私は、のぶみさんやオムツCMが描いた世界というのは、一定程度「現実」であり、「事実」でもあると思います。母親がワンオペで四苦八苦し、我慢も自己犠牲もたくさんしている。ここまではもちろん現実としてあることですし、加えて、そのあと、「でも振り返ってみれば、あの日々も宝物」「それでもあなたを産んでよかった」「母になれてよかった」のように思う母親たちがいるということも、事実だと思います。

でも、それをありのままに描くと炎上するのはなぜか。見聞きした人が、押し付けられているように感じられる、だからあなたも頑張ってね、母親だったらそのようにして当然でしょ、というメッセージを受け取ってしまうということもあると思います。特に今回、絵本や元うたのおにいさんの歌ということですので、子どもに「あなたのためにこんなに犠牲になってるのよ」と恨み節を聞かせたくないという観点からも批判されているようです。

「認知的不協和」と酸っぱい葡萄

それに加えて、私がおぼろげながら感じたのは、「現実」「事実」のほうが歪んでいるから、みんな反発するんだろうなぁということです。絵本作家さんの話だからというわけではありませんが、「すっぱいぶどう」というイソップ寓話を皆さんご存知ではないでしょうか。キツネが美味しそうなブドウを見つけるのですが、どうやっても手に入らないとわかると「あれは酸っぱかったに違いない」と思い込むという話です。こういった認知のゆがみを、心理学では「認知的不協和」と言います。

認知的不協和というのは、(1)自分の信念やそれまでの行動と(2)矛盾した事実が出てきた(状態に陥った)とき、非常に不快感を覚えるというもの。この解決策は(1)の信念や行動を変えるか、(2)の事実に対する認識をねじまげるかということになります。

母親たちが、自己犠牲を強いられているとき、私はこれに近いことが起こっているのではないかと思うのです。本当はここまで我慢しないといけないのはおかしいと思ってる。どうして母親ばかりが、と思ってる。私だって母親になってからも自分らしく認められたい、と。それで、実際に【1】であげたように、「おかあさんだけど」色々な自由を持てるひとはいいわけですが、持てない場合、あまりにもその状況が理不尽すぎると、「すっぱいぶどう」の逆のことが起こるのではないでしょうか。つまり、「この自己犠牲こそ、素晴らしい」「母の我慢は愛であり、美しい」と思おうとしてしまう。

「呪い」の正体

これが、ネット上で皆さんがおっしゃっている「呪い」の正体ではないかと思うのです。つまり、仮にそれが確かに何人かの(おそらく本当に大変な時期を終えた)母親の認知的な現実だとしても、非常に不快感を覚える解決策として何とか認知が生み出した「いや、でもこれでよかったんだ」(あのブドウは酸っぱかったんだの逆)が、他人(とりわけ今回、子育てを終えた女性どころか、子育て関係の渦中にいる男性)によりスルッと描かれてしまうと、特にその認知の調整がまだ済んでいない人にとっては「非常に不快感」だけが残る。

「あなたを産んでよかった」まで歪んでいるとは言いませんが、でもそこまで我慢しないでそこまで自己犠牲しないで済んだほうがもっと「振り返れば宝物」になったかもしれないし、母ばかりが苦労しなくても「あなたを産んでよかった」ことには変わりはないはず。なのに、あたかも苦労し我慢していることがお母さんであり愛であるかのような、不協和を調整後の認知が(仮に実際にそういう認知が実際のお母さんたちの声の中にあったとしても)広められてしまうことに、皆さん抵抗をしているのではないかなと思います。

チェック体制は機能しないのか

まぁそこまで難しい概念を持ち出さなくても、もう母親役割を強調するトーンは時代錯誤でNGですね。【3】の表現も含めて、絵本作家さん個人攻撃をしたいというよりは、様々な炎上CMのときと同じように、おそらく何人もこれをチェックできる立場の人はいたはずなのに、誰も何も思わなかったんだろうか…と、日本企業の意思決定の場面でのある意味での認知の偏りを非常に感じ、そちらのほうが深刻な問題だとは思いました。

ただ「ちゃんと本人たちにヒアリングしたのになんで炎上するんだよ」と思っている制作側の方がいたら、本人たちが言ったことをそのまま描けばいいかというとそういうわけではないということにも意識を向けてもらえたらと思います。

東京大学特任助教

東京大学男女共同参画室特任助教。2007年東京大学教育学部卒、日本経済新聞社。14年、立命館大学大学院先端総合学術研究科で修士号取得、15年4月よりフリージャーナリスト。厚労省「働き方の未来2035懇談会」、経産省「競争戦略としてのダイバーシティ経営の在り方に関する検討会」「雇用関係によらない働き方に関する研究会」委員。著書に『「育休世代」のジレンマ~女性活用はなぜ失敗するのか?』『上司の「いじり」が許せない』『なぜ共働きも専業もしんどいのか~主婦がいないと回らない構造』。キッズラインを巡る報道でPEPジャーナリズム大賞2021特別賞。シンガポール5年滞在後帰国。

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