毒親育ちの生きづらさは親のせいにあらず。世界的な哲学者が示唆
こうやってYahoo!ニュースに原稿が載れば、私の書いたものをお読みくださった方が私のSNSに感想をお寄せくださることがあります。その多くは哲学の知識を披露するものです。
「ひとみさんは〇〇と書いているけど、ニーチェは△△と言っている」など。
しかもその△△が哲学の概説書のままの解釈であったり、哲学者の言葉を自己啓発的に解釈したもの(ネットでよく見る間違った解釈のもの)だったりします。
私は哲学者の主張を「私」の側にグイっと引き寄せ、生活感覚にもとづいて「私」のあり方を考えるということをやっています。ようするに先人の天才的秀才的思考を「私」の人生に活かすことをやっています。つまり、哲学を使う、哲学する、ということをやっています。それ以外に興味はない。
というわけで、今回は、世界的哲学者であるメルロー=ポンティの主張をグイっと「私」に引き寄せて、毒親育ちの生きづらさは親のせいではないことについて論じたと思います。
「これで満足したでしょ?」
例えば、両親ともに東大卒だという20歳の女性が以前、私のもとにカウンセリングに訪れました。彼女は小学生の頃から「東大に行け」と親に言われ続けてきました。
対して彼女は、地元の小さな私立大学に進学してのんびりと暮らしたいと思っていました。
しかし、彼女は親になにも言えず、我慢に我慢を重ね、親の言いつけどおり勉強し、一浪のすえ東大に入りました(その我慢が限界を迎え、自分がバラバラになりそうだから私のもとに相談に来た)。
さて、その彼女には妹がいました。妹も姉同様、小学生の頃から両親に「東大に行け、勉強しろ」と言われ続けてきました。
しかし、妹は姉とは違いました。
名門私立中学の合格発表の日、妹は両親にこう言い放ちました。「ね? 私、合格したでしょ? これでいいでしょ? 満足したでしょ? というわけで、私は地元の公立中学に通います」。
姉は両親に対して自分の意見を言えない。他方、妹は自分の意見を言える。
この違いはどこからくるのでしょうか?
メルロー=ポンティの身体論
ところで、フランスを代表する世界的哲学者であるメルロー=ポンティは、私たちの身体は「意識とはまったく独立に」自分が置かれている状況を判断する能力を有していると主張します。
例えば、ストーブの上で湯気を出しているヤカンに手を触れない赤ちゃんは、かつてそれを触って火傷したからという理由だけで触れない「のではない」とメルロー=ポンティは言います。赤ちゃんの身体はヤカンが発する危険信号を察知した。メルロー=ポンティはこう主張します。
そこには、私たちがなぜか生まれながらにして持っている「自分を対象化する身体能力=自分の身体を客観的に捉える能力」が前提されるはずだ、と彼は言います。
すなわち、自分の置かれている状況を「主=メイン」と見た場合、身体は「客=サブ」となります。
反対に、自分が置かれている状況を「客=サブ」を見た場合、自分の身体は「主=メイン」になります。
何を主と捉えるのか、あるいは、一度主と捉えたものを瞬時に客と捉え直せるか――そういった能力の高低や有無によって、私たちの人生観や他者の見方は変わってくる。メルロー=ポンティの身体論とは、ざっくり言えばこういうものです。
毒親ゆえに生きづらさを感じる人とは
その言にしたがうなら、毒親ゆえに生きづらさを感じる人というのは、ある状況における自分の身体を客観視する能力が低い(あるいはない)と言えます。
毒親を前にした時、自分の身体を客観的に見ることができれば、先の妹のように「ね? 私、合格したでしょ? これでいいでしょ? 満足したでしょ? というわけで、私は地元の公立中学に通います」と親に言えます。
姉はしかし、毒親を前に身体が硬くなる、すなわち自分の身体を客観視する能力が低い(あるいはない)から、20歳をすぎても親の言いなりになるしかない(こういう人、やさしすぎる性格の持ち主に多いですよねえ)。
親を前にした時、身体が硬くなってしまうというのは、生まれもった身体性であり、それ自体はどうにもならないものです。身長の高低や鼻の高低、痩せやすい体質・痩せづらい体質などと同様、どうにもならない。
したがって、先の姉は一生生きづらさを抱えるでしょうし、親と表面上仲のいいふりを続けるでしょう。他方、妹は一生自由に生きることでしょう(なんなら「へそピアス」を開けるほど自由に生きるかもしれない)。なぜならそれが生まれもったものだから。
しかし、ご紹介したメルロー=ポンティの慧眼(けいがん)に心底納得できたなら、親のことを憎まなくなる可能性はあります。主客が移動すると世界の見え方がまるで違ってくるからであり、それこそが真に自分が変わるということだからです。