成功する子育てと失敗する子育てのちょっとした違い「奥さん、忘れ物ですよ」
「本当はこう生きたい」という気持ちに親自身が蓋をして暮らしていると、子育てはかなりの確率で失敗するようです。なぜなら、子どもに「本当にやりたいことではなく勉強しなさい」などと強制するようになるからです。
また、親自身が「本当はこう生きたい」という気持ちを自他に対して隠していることを隠すと、子育てはほぼ失敗します。
なぜなら子どもは、親の生きづらさ(なにかを我慢している感じ)を敏感に察知するからです。
子どもは非力ですから、親がなにかを我慢しつつ不機嫌そうに(つまらなそうに)暮らしていたら委縮します。委縮しない子がいるなら、その子は奇跡的に親とはなんらか別の素養を持ってこの世に生まれてきたのです。
眼前に果てしなく広がる光景
私たちは、特に社会から、「本当はこう生きたい」という気持ちを隠すよう要請されつつ暮らしています。
「本当は自分で小さなパン屋さんをやりたい」と思ったところで、「会社勤めの人と自営業の人では年金支給額が変わりますがそれでもいい?」と社会から言われます。たいていの人は安藤忠雄さんや岡本太郎さんのように社会とトコトン闘う生きざまではなく、老後の心配をしつつマジメに暮らしているので、「それではちょっと」と思って「本当にやりたいこと」を隠します。
会社勤めをすれば、そこまで子会社をガチガチに管理しなくてもいいだろうと思っても、社会が「わずかでも不祥事があっては困る」と言ってくるので過剰に管理します。管理する側もされる側も自分の意見と会社の意見の齟齬に苦しみつつも、結局タテマエを生きます。「本当はこう生きたい」という気持ちがおのずと後景化し、眼前に果てしなく広がるタテマエの社会。
「私のなにが悪いのですか?」
それだけならまだしも、「本当はこうしたい」という気持ちに蓋をしているという事実を隠す人がいます。そういう人は「私は筋のとおった理屈にもとづいて暮らしているのに何が悪いのですか?」と言います。私のもとにカウンセリングに来ても埒が明かない人はたいていこのパターンです。
何が悪いのか?
「本当はこうしたい」という気持ちに蓋をし、さらに、蓋をしていることを隠蔽している、その生きざまが悪いとしか言いようがありません。
ご本人は「本当はこうしたい」という気持ちをわずかでも見てしまうとさらに生きづらくなると熟知している、つまり自己防衛の手段としての隠蔽なのでしょうけど。
しかしどうあれ、ご本人はタテマエという「他者の価値観」を生きるように自己洗脳しています。それが事実です。
何が悪いのかと問われた場合、それが悪いと私は言うのですが、蓋はしっかりと閉じられているし、ご本人は蓋をした事実を忘れ去りたいと願っているので、文字通り話にならない。
他方、子どもは自然です。予測不可能なことを発想するし、実際にそれをやります。
そこにおのずと深い溝が生まれます。子どもは非力ゆえ、その溝につまずきます。その必然の結果として、子育てが失敗します。
「奥さん、忘れ物ですよ」
じつは、親自身が自分を生きている限りにおいて、子育てに成功も失敗もありません。親が自分を生きていると、その背中を見た子どもも自分を生きるのが常ですが、そこから生じた結果にいいも悪いもありません。自分を生きるというのは生まれもったものに素直に生きるということであり、生まれもったものにいいも悪いもないからです。
しかし、先の挙げた「2つの隠蔽」によって他者の価値観を生きるようになると、とたんに話がややこしくなります。現にそこに存在するものを隠すからです。
これは人生の不思議(人体の不思議)としか言いようがないと思うのですが、隠したものは、なぜか、やがて、必ず、表にひょっこりと顔を現します。「奥さん、忘れ物ですよ」と――。
「本当はこうしたい、こう生きたい」という気持ちにしっかりと蓋をし、かつ蓋をしたという事実を忘れようと努力した結果、お金儲けや子育てに成功し幸せに暮らしているある奥さんが、夜ごと夢の中で「奥さん、忘れ物ですよ」と、何者かに追われる――こんな話を作家の村上春樹さんは小説に書いています。
奥さんは2つのものを隠蔽しているゆえに、今の幸せがいつ崩壊するのか心配なのです。