精神科医が言及しない「心の謎」~ユーミンと井上陽水さんのうたの歌詞を参考に~
おそらく多くの人は「早起きして太陽の光を浴びればセロトニンが出てきて鬱っぽさから解放される」という精神科医の言うことをある程度信用していると思います。
しかし、それでは心が晴れない時があるのも、事実です。そういう時、高額な自己啓発セミナーに参加する人もいます。「心理学という科学では割り切れない何かが心の中にあるのではないか」と疑問に思い、何らかの本を読む人もいます。
今回は、心理学が科学であるゆえに扱わない心の不思議についてお話したいと思います。恋愛や子育て、親子関係に悩んでいる方はとくに、ご参考になさってみてはいかがでしょうか。
ユーミンの「ひこうき雲」
例えば、ユーミンの「ひこうき雲」の歌詞には、空に憧れる「あの子」が出てきます。「あの子」がなぜ空に憧れているのか、まわりの人は分からない。おそらく本人だってよく分かっていない。しかし、「あの子」は空に憧れ、何も恐れることなく空へ旅立った。
おおむねそういった歌詞ですが、なぜとりとめもないものに心惹かれるのか?
これは歌詞にあるとおり、誰にも分かりません。なぜか分からないけど、心というものはそういったよくわからないものを有しているとしか言いようがありません。
模試の結果を改ざんする高校生たち
あるいは、模試の結果を改ざんする高校生がいます。3人の予備校や塾の先生から、そういう生徒がいると私は聞きました。私自身も2人、そういう生徒を知っています。
彼(女)は、親から「医学部に行け」としつこく言われ続け、かつ親に反抗する術を持っていません。だから模試の結果を改ざんし(もちろん「いい方に」改ざんし)、親が納得するものをでっち上げます。
彼(女)は倫理観を持っているので「改ざんは善くない」と分かっています。しかし、倫理を超えた何者か――彼(女)の心に巣くう何者かが「改ざんしてでも親の気持ちにそぐうものを親に見せろ」と言います。
そこには当然、葛藤がありますが、彼(女)は倫理を超えた何者かの言うとおりにふるまいます。
倫理を超えたなにか
ユーミンの歌詞なら「自殺は善くない」という倫理。高校生の例なら「改ざんは悪だ」という倫理。それは誰だって知っていることです。
しかし、倫理――言葉という一般化されたツールで言い表せ、かつ他者と共有可能なものを超えた何者かが、私たちをふるまいを決定する時があります。
そのことを井上陽水さんは「決められたリズム」という歌にしていると私は感じます。
その歌の歌詞はすべて受動態で書かれています。「起こされた」とか「叱られた」「渡された」とかと受動態で書かれています。
しかし、誰に起こされたのか、誰に怒られたのかまでは書かれていません。親に起こされ、学校の先生に叱られた。直接的にはそう読めます。
しかし、歌を聴くと即座にわかることですが、そんな「小さな」世界観を井上陽水さんは歌っているわけではない。
おそらく、「倫理という、言葉で言い表せ、かつ他者と共有可能なものを超えた何者か」が、歌の主人公を起こし、叱った、ということでしょう。
じつは私たちが知っていること
つまり、あなたの人生を外側から、かつ内側から支配している何者かが、あなたの心の中にはいるということです。
今回はユーミンと井上陽水さんの歌を取り上げましたが、歌詞というものは「どうにもならないこと」を書くのが常です。「どうにかなること」は、それを実際にやればよく、それは別に歌う必要がないからです。
「彼に会えなくて寂しい」と歌うのなら会いに行くとよい。しかし、彼は死んでしまってすでにこの世にいないから「歌うしかない」。これが歌の基本です。
私たちは酔っぱらった時、しばしばカラオケに行き、なんらか身体的かつ精神的快感を得ますが、それは倫理という「言葉で言い表せ、かつ他者と共有可能なもの」を超えた何者かと、束の間、対話することが「気持ちいい」と感じるからではないでしょうか?
なぜそれが気持ちいいのか?
私たちは昼間は隠しているだけで、「科学では解明不可能ななんらかの力に支配されつつ生きている」ことを、じつは知っているからではないでしょうか。
「本当のこと」を「王様の耳はロバの耳」的に、防音室で絶叫したい。誰かと共有したい――そんな欲求を、私たちはじつは持っているのではないでしょうか。