人生に意味はある?ない?←世界的哲学者と精神分析家の答えとは?
今回は「人生に意味はあるのか?」という問いに対して、世界的哲学者と世界的精神分析がどのように答えているのかについて一緒に見ていきたいと思います。最終的に子育ての話へとつなげます。
世界的哲学者はキルケゴールを、世界的な精神分析家はフランスの精神分析の権威であるジャック・ラカンを取り上げます。キルケゴールは「私」に徹底的にこだわった最初の哲学者、すなわち実存主義の父としてつとに有名です。
さて、一緒に見ていきましょう。
人類が究極まで考えた答えとは
キルケゴールとラカンに共通する人間観は、「意識が主体ではない」というものです。つまり、私たちが「こうしたい」とか「こうあるべき」などと頭で考えていること、すなわち意思の力は、じつはとても小さいもので、それ以外のなんらかよくわからない力がじつは、私たちの人生を動かしていると洞察したのです。
キルケゴールはそのことを「永遠」という言葉で表しています。「永遠」とはキルケゴール哲学を読み解く最重要キーワードであり、「なぜかわからないけど気づいたらヤバイことや崇高すぎることを考えている自分」を生み出す種みたいなものです。
たとえば、私のもとにカウンセリングに訪れたある女性は、音大を卒業して町の子どもピアノ教室の先生をしていました。彼女は自分の音楽的能力の限界をよく知っていました。それゆえ、どれだけお金や人脈、チャンスに恵まれたところで、世界的ピアニストになどなれないとよくわかっていました。
わかっているけどそうしてしまう
しかし、深夜ひとりでお酒を飲んでいるとふと、「今からでも努力して世界的なピアニストになりたい」という激しい気持ちがなぜか湧き上がってくるそうです。そして、その気持ちをどうにもすることもできず、結局夜明け近くまで大爆音でチャイコフスキーの5番を聞きながら大泣きするそうです。
つまり彼女は、頭では「私は世界的ピアニストになれない」とわかっています。しかし、理性ではないなんらかが、「わかっているけど世界的ピアニストになりたい」という気持ちを彼女にもたらします。その「理性ではないなんらか」がキルケゴールのいう永遠です。
一方ラカンは、キルケゴールが書き残した書物とフロイトが書き残した書物を熱心に研究した精神分析家かつ哲学者ですが、キルケゴールの永遠概念をさまざまなふうに言い表しました。例えば、「反復強迫」とか「シニフィアン連鎖のしつこさ」などと――。
反復強迫というのは、なぜかわからないけれど不幸が繰り返される、というくらいの意味です。
シニフィアン連鎖というのは、なぜかわからないけれど私たちは言葉が持つ音(サウンド)に引きずられつつ、いわば無意識的に行動してしまっている、すなわち、「気づいたらそうしていた」というような意味です。
たとえば、「お父さん」と聞いて「ステキな人」と思う人もいれば、「イヤな存在」と思う人もいると思いますが、そう思うというのは、そう思うだけのあなた固有の経験があるからです。しかし同時に、「お父さん」という言葉のサウンドが自律的に(勝手に)そういう連想をなぜか、あなたの脳にもたらしている――これがラカンのいうシニフィアン連鎖のしつこさです。
つまり、ラカンもキルケゴール同様、主体は意識ではないという人間観を持っています。
誰かがあなたの人生を操っている
キルケゴールとラカンの哲学を総合的に解釈するなら、人は何者かによって生かされている、となります。「人生に意味はあるのか」と問う以前に、じつは人は「なぜか生きてしまっている」「生かされてしまっている」のです。
しかし、「それが答えです」と言ったところで、問いと答えが釣り合っていないように感じられて気持ち悪さを感じる人も多いと思うので、話を続けます。
ところで、誰もが知っているとおり、私たちは何の意味もなく生まれてきます。私たちはお父さんとお母さんがやるべきことをやった結果生まれてくるだけですから、何の意味もなく生まれてくると言っていいでしょう。
もちろん、子をもうけるにあたって何らかの意味を考えている親はいるでしょう。たとえば、子孫を残すという意味を見出している親もいれば、なんらかかわいい存在を身近に置くことによって自分の人生の無意味さを解消させたいという意味を持っている親だっているでしょう。
しかし、生まれてくる子は、いわば自動的に生まれ「させられる」のですから、子にとって人生に意味はないと言えます。
中二病と人生の意味
意味のない人生をいわば自動的に始めさせられ、あるていど言葉を操れるようになった頃、すなわち小学校の高学年から中学生くらいにかけて、私たちは人生の意味を問うようになります。
「中二病」という言葉はそれを端的に表している優れた言葉ではないかと私は思います。
「人生に意味はない!」。中二病におかされた人はたいていそう言います。先に見たように、それは人生の一面の真実です。
しかし、キルケゴールやラカンが主張しているように、意味はあるのかと問う以前にすでに、私たちの人生は何らかに生かされてしまっています。好むと好まざるとにかかわらず「すでに」人生をはじめさせられているのです。
以上のことを総合的に捉えるなら、人生に意味はあるのか?という問いに対する世界的哲学者と世界的精神分析家の答えは、「あなたを生かしている何者かが何者なのかを追究する過程において、人生の意味が見えてくるのではないか?」となります。
つまり、あなたは何者かに生かされている以上、その者の意見に耳を傾けるしかなく、その結果聞こえたことが、あなたにとっての人生の意味だということです。
人生の意味と子育て
最後に。この稿はじつは、子育てを念頭において書かれました。皆さんご存知のように、親が「人生に意味などない」と思って無為に、あるいは自暴自棄に生きていたら、いい子育てなどできるはずがないからです。
親自身が「私は何者かに生かされているのだ」という視点を持ち、「なぜ生かされているのだろう」「私の人生の使命は何なのだろう」と問い続けながら自らの人生を生きることが、よい子育てへと繋がっていく。このことをぜひ知っておいていただきたいと思います。
つまり、たとえば、「あなたのために〇〇してあげたのよ」と子に言うと、「そんなこと頼んたおぼえはない」と返してくる生意気な(?)子どもがいますが、その子はじつは、親が人生における大切なことを知らないまま生きている生きざまを、端的に指摘しているのです。