生きているだけでなぜ不安なのか?「蓋が閉じられているからだ。だがしかし」
子育てにしろ恋愛にしろ、親子関係にしろ、何をやっていても「何が不安なのかよくわからないけれどなんか不安」という気持ちが亡霊のようについてまわり、そのことに不安や不快感を覚える人がいます。
子どもが試験で満点をとれば「これでひと安心」と思えばいいものを、「次の試験対策どうしよう。あそこの名門塾の入塾試験は3ヶ月後よね」「名門塾に入ったら授業についていくのに家庭教師を雇ったほうがいいかしら。そしたらお金が……」などと、次々に不安を自家発電する人とか。
あるいは、気持ちの通い合う恋人ができたのだから安心してゆっくりすればいいのに、「なんか不安なんです」と私のもとにカウンセリングに訪れる人とか。
そういう人が現にいます。
薬と認知行動療法
科学の心理学は、例えば、投薬や認知行動療法などによって「漠然とした不安」をどうにかしようと試みるようです。
科学の心理学は「漠然とした不安」の原因を、例えば「神経質な性格や不安を感じやすい性格」に求めたり、「セロトニンの少なさや神経症などの遺伝」に求めたりしており、それらを薬や認知行動療法などで治療するのが、現代日本の「常識」のようになっていると感じられます。
それで「なんか不安」という気持ちが解消する人はそれでいいのでしょう。しかし、解消しない人もいます。
服用や認知行動療法の結果、(これは科学の心理学にとって予想外のうれしくない結果なのかもしれませんが)、考え方が「前向きに頑固になる」人もいます。つまり、心の中のネガティブな部分にしっかりと蓋をしたうえで「私は明るく元気な人間です」などと言い張る人です。
哲学が明かす「漠然とした不安」の原因とは
ところで、哲学は「漠然とした不安」についてどのように言っているのでしょうか。
たとえば、実存主義の父であるキルケゴールは?
「永遠」が漠然とした不安を生み出しているのであって、あなたに非はない、と言うかもしれません。
キルケゴールは「私たちの心は『欲求』『べき論』『永遠』の3つで成っている」と考えたと私は理解しています。高校の倫理の教科書に載っている「美的生活」「倫理的生活」「宗教的生活」を言い換えただけです。
美的生活を経て私たちは、倫理的生活にたどりつき、やがて宗教的生活に至る、と教科書には書かれていたように記憶していますが、彼の主著である『死に至る病』や彼の日記を読めば、その3つは死ぬまで私たちの心に存在し続け、常に葛藤していると解釈できます。
つまり、例えば「性行為をしたい」という気持ちと、なぜか崇高な考えや邪悪な考えを生み出している「永遠」とが死ぬまで葛藤している。だから漠然とした不安は消えない(いつまでも性行為に関して罪悪感を抱いてしまう)。
あるいは「社会人として正しく生きるべきだ」という気持ちと「会社勤めなど放棄してピアノの練習をし、世界的ピアニストになりたい」と思う気持ちが死ぬまで葛藤する。だから漠然とした不安は消えない(いつまでも「根なし草」のような生き様から脱却できない)。
彼はこのように考えていたように思います。
なぜかわからないもの
永遠とは、中島義道先生の解釈をお借りするなら「神ではないが神につながっているなにか」です。つまり、「なぜかはわからないけれど、現に私たちにそういう気持ちを抱かせてしまう何か」です。
「いい大人なのだから社会人としてまっとうなことをすべきだ」と、誰でも頭ではわかっています。しかし、心のどこかから、なぜか、「まっとうな勤め人であることなど放棄してピアノの練習をし、世界的ピアニストになりたい」と思う気持ちが湧きおこる。私たちの心はその思いに理不尽なまでに振りまわされる。
つまり、漠然とした不安とは、私たちの心に棲みついている「意識的に抑制しようと思ってもそうできない何者か」が生み出しているものだ。キルケゴールはこう考えたと私は理解しています。
その言にしたがうなら、「ぼんやりした不安」が原因で自殺したとされる芥川龍之介は、心に棲みつく「永遠」との葛藤のすえ自殺した。あるいは、永遠の存在を知らないまま「ぼんやりとした不安は母親不在というつらい幼少期の出来事がもたらしたのだ」という考えに支配されたまま亡くなったのかもしれない。
閉じられた蓋を開けないといけない。だがしかし
私はキルケゴールの永遠を知った時点でおおよそのことが理解できたので、そこから先を哲学したいとあまり思えません。
しかし、さまざまな人と話してみると、どうやら私のような人は特殊らしいのです。
「永遠? ふうん。それってフロイトの無意識みたいなもの?」
多くの人はそう言って、「まあ、そんな辛気臭い話なんか止めて酒でも飲みに行こうか」と言い、翌日からまた「なんか不安だ」と言います。
そういう人は自分の心に宿る永遠を見たくないと思っているのではないか?
私はそういぶかしんでいます。
見たくない理由はなんとなくわかります。見てしまえば、ただでさえ不安でグラついている足元がさらにグラつき、文字通り生きている心地がしなくなるからです。
しかし、どうあれ、永遠は現にそこに存在するのだから、存在するものを「ない」ことにはできません。「ある」ものは「ある」と認識するしかない。まさにそこにあるのだから。
まさにそこに存在するものを「見ないようにする」ことで、さらなる不安が湧きおこるのは火を見るよりも明らかです。
深夜に階下で物音がする……その音を「聞かなかったこと」にして眠ってしまおう。そう思って目を閉じても、不安は消えないどころか、ますます気になるのと同じです。
信じるという心のはたらき
しかし、それにしてもなぜ、見ないように蓋をしてしまうのか?
これは倫理の基礎的な問いに通底するものがあるように思います。
倫理学の基礎的な問いは「なぜ悪いことをしてはいけないのか」ですが、多くの人は「悪いことをしてはいけない」という「思い込み」を前提として「なぜ」を語っているように私には感じられます。
つまり多くの人は、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問いに対して「悪いことをしてはいけないからです」と「本気」で答えているのです!
おかしいですよね?
あるいは、クリスチャンは多くの場合、キリスト教を熱心に信仰していますが、これまた多くの場合、イエスが人間の姿をした神であることにつまずきません。それどころか「ああ、イエス様は人間の姿をした神なんですね」と、その「矛盾」をやすやすと受け入れているように私には見えます。熱心なクリスチャンなら、キルケゴールのように、そこにこそ、おおいにつまずくべきなのに。
「永遠問題」もこれと似たような構造を持っているのではないでしょうか。
つまり、自分が見たいと思ったものはほぼ無条件で受け入れる。見たくないと思ったものはほぼ無条件でシャットアウト。
なぜ?
この問いにはすぐには答えが出ないので、今後の私の課題とします。
ともあれ、永遠に蓋をしている、その蓋をいったん取らないと、漠然とした不安は解消されません。しかし、多くの人は蓋をかたくなに開けようとしません。そこに「生きてるだけで不安」の元凶があります。